7年経ちました

55政党というブログからの

今日はてブのランキングに上がっていた。
他人が肯定しても、自己否定的な人間は自分を肯定できない ---こころの肥溜め さん

ステキはお話しだ。
コメントを見てても、優しさが詰まっている。

そして実は、昨日の話しと繋がる部分として、「自分が認めてあげる」ということを書こうとしていたので.. ちょっと驚いた。
私の場合は、バファリンのように優しさが半分詰まっていたりはしない。

“性格”と思える部分をシビアに解剖してしまうのは、結構イタいことだ。
だけど、結局それも政治に繋がっている。
55政党では、これらも政治に繋がっていることとして、副題的に取り扱っていく。
からこその.. 平気で主張をしていく。

自己肯定的とか否定的というのは... 自分と自分の外との関係性に関連することで、これは自分と自分の外とがどうコミュニケートしてきた-されてきたかがまず一番影響している部分だ。
親、兄弟、同い年の子ども、それ以外.. という風に、自分の社会が広がるにつれ、その新たな関係性をどう自分に着地させていくか。これらは全て体得すべきもので、知識で習得するものではない。

そのような前段階をシビアに考えすぎると.. だれも子育てなど出来なくなるが、実は、この部分に関係することで子どもが自力で体得することが出来る最後の段階がある。それがアイデンティティの確立だ。
なので、親はそう心配せずとも.. 自然体で接すればいい。大体皆、不完全な親に育てられ、不完全な自分に育っている。それでも皆それなりにやっている。


自力で掴むことが出来る最後の段階.. アイデンティティの確立は、“それなり”と言えないような人でも確立することができる。


取り上げた記事のコメントだったか、文中だったか、ブックマークのコメントだったか忘れたが、“人から得た客観的な評価”“根拠がある評価”云々というのがある。
果たして自分は.. 「あの人は○○が△△もできるからすごい」などと、数値的な評価をしているだろうか...。それはきっと少なくとも、自分の知人たちの世界で通用する範囲だ。赤の他人だったらどうだ.. 金持ってそう、優しそう、銀行マンっぽい、いい車に乗ってるな、とかそんな程度だろう。
そして先ほどの知人への評価だって、そんな話題になるからこそ出た話しで、それは別に自分にとって重要なことではないだろう。あえていうなら、それによる恩恵を得られるコネクションを保っておくことぐらいか..。

他人から見た自分の評価など、その程度のものなんだ。

自分の評価が大事なのは自分で、ホントの自分も自分しか分かってはくれない。
それは同時に、自分だって他人をそこまでしか分かってないし、第一重要でも何でもない。

自分の評価は、自分が決めることなんだ。

確かに、知人友人に囲まれた狭い社会にのみ生きる人は、それが世界の全てみたいなものなんで.. 体得し辛い。
しかし、今までの日本では.. 否応なしに、そんな世界から飛び出さなきゃなんなかった。
ところが近頃は、個人の自由が拡大し、自身の望まない世界に踏み込まなくてよくなってきている。
これも(本質的ではなく)環境的な原因のひとつだ。

人の評価とは、つまり結果やカタチ(外見でもいい)につく。
ところが、自分が欲する人からの評価とは.. 結果や外見以外を指す。
1+1=ぐらい明快じゃないか... 
つまりそんなものは決して得られないということ。
それでも人から評価を得たいのならば、結果やカタチを残さなきゃなんないということだ。

話しがややこしくなるが.. ここで問うているのは、『どう結果を残すか』『どうやって人に認められるか』ではない。あくまでも、『自分の評価は自分が決める』ということだ。そして他人からの評価は自分のポテンシャルや人間性にではなく『結果やカタチにしか得られない。』ということだ。


では、一体どんな自分か...
大したことない。
いや実は、世の中で大人物と言われている人の少なからずも、自分で自分を大したことないと思っているハズだ。
人間の器自体を勝負しているのはヤクザさんぐらいだろう。

そう... 大概自分なんて大したことないんだ。
その上での“差”と、自分の意思.. どうしたいのか、どうなりたいのか、それとも意思などないのか... を考えて行こうよ。

周囲の人気者(いやテレビでもいいし、組織でもいい)を観察してみよう..。
彼らは、その周りの人間を『どう生かすか』『どうすれば輝くか』『キャラが生かされるか』を考えている。なので関わり方も、その人を輝かすために自分が知りたいことを探究してくる。そしてそんな関わり方をされるほうは、何だか心地よい。そしてそれを知ってくれると、自分を生かしてくれる。
自分が輝くことなど実は大して考えちゃあいないんだ。但し、自分のポジション(キャラ、居場所)は自分が知っている。

自分がどう思おうが、“差”はある。人の事を思う程度の深さで自分も見ることだ。その時の“差”こそが、社会に存在する自分としての“差”であり、つまりは個性だ。
それを丸々自分で自分を認めてあげなきゃ... 社会に着地出来ようがない。

人と人との“差”を、否定して回っている人々がいる。
誰が何と言おうと、その“差”は当人だって周囲だって、そう感じているのに...。

やらなきゃいけないことは、そんな“差”を認め、そんなキャラの自分がどう生き、どう生かされていくのかにある。55政党では、「人は生きてるんじゃない、生かされているんだ。」と度々主張している。
自分が生きてくる、もしくは生かされるために何をしなきゃなんないか.. 考えてるヒマなどないよ。



度々繰り返すが、
自分が他人にする評価... それはどんだけシビアなものか?
適当でしょう?!
同じように自分に下される他人の評価だって、その程度のもの。
今在る自分は、まず自分が認めてあげなきゃなんない。
これが重要なことだ。




最後に、人間の関係性(この話は自我ではない。関係性の話しだ。)を問う上で、重要なことがある。
人間のそういった性向というのは、そのこと自体を第一義的に取り扱ってはならない。それらは全て、生きる-生かされる生活の上で得られる副産物だ。

なので重要なのは経験となる。

その上でお勧めする経験は

・大好きな人と付き合うこと
・自分が関わったことのない人と交わること
・多くの“些細な差”を知ること
・とにかく結果を得られる何かひとつに没頭すること(趣味でも何でもいい)

それらをわざわざするくらいなら、別にやる必要もない。それが楽しかったり、必要だったりする場合にのみやればよい。

そんな感じか..。
そして自分がそのことで悩んでるんじゃあない人には度々お勧めする知識がある。

ライフサイクル、その完結
ライフサイクル、その完結E.H. エリクソン J.M. エリクソン Erik H. Erikson

おすすめ平均
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人間は、心と体と頭が一体となって成長するメカニズムになっている。
この本は、“当たり前”を問う本。
なので、当たり前じゃない自分も理解できる。
その時は、あたりまえじゃあないんだから、外部のチカラを借りればいい。
そういう目安になる。

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「政官業」癒着と「個」の確立 

『真実の議論』の続きに行く前に..
ここまでのまとめ(というか、自分が興味を持った部分を自分に取り込む作業)をしておく。

まず、「政官業癒着」だが..
これはもうそれほど心配ない。

“政”は.. このメカニズムでは票もカネもどんどん集まりにくくなってきている。引き続きそのベクトルで進んでいくだろう。それに、この件に関しては間違いなく、自民政権が変わったことが大きい。
ただ、業界団体とか社団法人とかから自動的に政党の政治団体に資金が回るメカニズム... ここは当面残って行く。最初っから自民を支援するために作られた業界団体なり公益法人だったとして、その法人が生き残る以上は、今度は民主に支援を切り替えることが可能だ。
そうであっても結局は、そのルートに意味が薄れていけば、カネも集まらなくなる。


それと、公益法人で思い出した。
公的法人-行政-社会 を取り巻く中で、今なお拡大を続けている分野は、警察と教育だ。
そして警察と教育は県の管轄。
この辺をクリアにしていく必要がある。

55では、ちょっと前に『役所とか警察とか学校がしっかりしていることが重要なんで、そのような公務員給与は下げるべきではない』と主張したが.. それは警察官、役場職員、教師のそれぞれ個々の意義・役割・充実が大事だとしているだけであって.. 分野の拡大は全く別の話し。

そして県管轄にはあと医療があるが.. これは何も私が医療分野寄りだから非難しないのではない。医療は、既に民業主導で、そしてそんな民業に社会的役割がしっかりと守られている。
それに、怪しい公益法人などろくにない。

私は特に千葉県人なんで.. 森田健作ちゃんの明らかに警察寄りな姿勢、そして今どきバカでかい県警庁舎もあって余計に気になる。
警備会社の役割拡大は近頃は止まって来たんだろうか...。

そして教育も。授業料だ給食費だ平等だ何やかんや結局教育分野にはカネが流され続けているが・・ それ以上に疑問でならないのは、みんな学校へ行ってる。それは昔も変わらない。そして多くが塾に行っている。もしみんな塾に行っているとすれば.. 子どもの数が変わらなければ教育分野は2倍の大きさになっていることになる。
まあ実際には子どもも減っているし、全員が通っているわけじゃない。これはイメージとして捉えやすくするため。
先の警備では、それでさらに住みやすくなるというのなら、まだ許せる。
しかし、塾というのは.. これは同地域同世代同士の受験競争のためだけに必要なもので、子どもが習得すべき知識に貢献しているとは到底思えない。さらに、参加者が増えれば、さらに加速していくメカニズムを持っている。

塾の先生で教員免許を持っている割合が知りたいものだ。
このふたつは、共通の性質を持つ。警察→警備会社 学校→塾。

だがしかし、厳しい国家の財布に合わせた行政と言っても... まず最初にカットすべき部分は、末端ではない。末端の実行政以外に流れているお金を止めることから始めなければならない。

と、ここで疑問に思う。
実行政はしっかりやっている。そして全国くまなく大差ない。では... その部分において政治運営をしているハズのセクション(県議)は、一体何をしているところなんだろうか?生活行政は市。市県民税も市。県税は.. 自動車税とか法人とか土地方面、資産財産に絡むものが多いが.. 逆に言うと担保がしっかりしてる分回収も難しくはないだろう。

・・・というか、正直ロクに知らない。
ここまで取り上げた警察・教育分野の内容は却下しよう。また追って考えていく。
※考えた工程を残したいため、そのまんま記載。




次に「個」の確立について。
これは正直、片山さん的捉え方は私にはさっぱり分からない。
村社会とかコミュニティというのが.. 苦手なんだ。そんな世界に身を置いた実感がない。

こっち方面で私に分かることは.. やはりアイデンティティ。

モラトリアムな方々は、思考の世界が世界の全てで、その入ってる入れ物自体を無視した発想をする。
存在自体を問う、存在単位で捉えるということがどうも苦手なようなんだ。

『自分から見た自分』 ・・恐らく、それ自体が納得がいかなくて、『自分が考える自分』で納得がいくようなんだが、自分が自分のことをどう捉えていようが、他人から見た自分は『ただの男』とか『会社員風』とか『背は低め』とか『細かそう』といったものでしかない。それがどんだけ「それは自分じゃない!」と言ったところで、社会に存在するそんな自分を認めざるを得ないんだ。だって.. 現に存在しているもん。

・・・とそんな部分が、「個」の確立と絡む話しだと捉えているわけだ。

55では何度も言っているように、思考には意思もなければ時間もない。実存がない。思考=自分だと思い込んでいる状態を「個」が確立されていない兆候の一部だと捉える。
ここで、“思い込んでいる”を受け入れるのか否定するのかでまた道が別れる。
自分は日本人で、○○県人で、△△民族で、□年生まれで、商人の家庭で ....いやいや、そうではなく、それら思考が入ってる入れ物の存在を認めろ!って話しだ。
第一、「私は日本人」ってったって.. それは架空の話しよ。全ての人類は生まれた時に神様が血統証を交付してくれるってんじゃあるまいし.. そうくくろうとすればくくれるってだけの話し。

あんたがどう思っていようと、ここに実際に存在してるでしょう!?って話しだ。
そして人は、それぞれ好き勝手に人を解釈してることになる。「そんな自分像は私じゃない!」と言ったところで.. じゃあ自分は他人をどれだけ誠実に解釈してるといんだろう。それは正しいか正しくないかではなく、人にとって他人とはその程度だということで、それは自分も同じだ。だからそんな他人の描く自分像を訂正して回ったところで.. そもそもその人にとって自分はそれほど重要じゃない。「あ、そう。」それで終わりだし、自分だってきっとそうだ。

自分が人をその程度にしか考えないように、人も自分をその程度にしか考えない。
じゃあ、自分とは。学歴も看板も容姿も.. 人はその程度にしか自分を大事にしていない。さて、じゃあ自分はいったい何だ?
唯一明確なのは、自分を入れてる箱含め.. 自分はこの世に1人しかいないってことだ。そして怖いことに.. 人は同じ見た目の別人を見たらそれを自分(その人)だと思うハズだ。それを違う!と証明できるのもまた自分(とそのそっくりさん)しかいない。
自分とは何か分からなくても、とにかく自分はこの世に1人しか存在していないは事実だ。
そしてそれを証明できるのも、自分しかいない。
つまり、自分というのは自分が決めるんだ。生まれ・偏差値・モテ度・名前・人種ほか.. それらは全て自分が決めたことではない。そしてそれらでは自分を確定させることが不可能だ。

そのように.. 自分を入れてる箱含め、自分で自分を自分だと認めるしかないんだ。
なので、アイデンティティを自我同一性と呼ぶ。自我と自分を入れてる箱を同一視できる状態をそう呼ぶんだ。


・・・何か気でも違ってしまったかのような勢いで書いたが、これはちょうどその辺で迷っている人の手助けになればと思って書いてみた。

その上で、なんでこれが「個」の確立と絡むのか。
それは「根拠がいらなくなる」からだ。思考と言うのは、実は意思や目的・動機がなければまともに動かない。ところが、自己と自我が一致していない人は、思考がそのようなものに影響を受けて動いている自分を認識していないことが多い。
すべてのものに根拠が必要ならば、全てのモノは全人類共通となる。それはある意味ただの動物と一緒だ。その時人類は考える必要がなくなるだろう。
なのに.. 全てのモノに根拠を求める。それは自分が勝手に決めつければいいことだ。
だって実際の自分は、多くの事を勝手に決めつけている。
なので、そんな自分を認識できているかいないかの違いでしかない。

と、そのような部分が、自分で考えることに繋がるのではないかと思うんだ。
そして日頃から主張しているように.. 私たちは常にお題を出され→正解を考える。それはもう... 習慣付けをされて思考回路を強制されているかのようなものだ。
ところが、実際の存在は、そうではない。習慣付けはその人の行動・発想の体内の流れ方を自動的にするが、そこには実際矛盾も生じている。なので、そのように当たり前に進めていた作業自体を、一旦止めて考える機会は少なくない。

それ以前に、そのような思考回路強制反復運動を早くからドロップアウトしてしまう人らがいる。
そういう人らほど、アイデンティティの確立が早いことが多いのも事実だ。

今目の前にあるものを「これは何だ?」と問われ.. すぐさま教科書を開く人がいる。
「いやいや、今目の前にあるんだから.. まずはそれを観察してみようよ。」って話しだ。

さて、いよいよ就職することが出来ました。明日は初出勤日です。
そこでもし、あなたが遅刻をしてしまったら.. どうします?

・・
・・・


正解は、きっと新社会人マニュアルかビジネスマナーの本に書いてあるだろう。
だけど実際に答えるべきは「遅刻しないようにします。」だ。
イギリスなんかでは、「自分で考える」「答えがいくつもある」「答えはないかもしれない」そんなことたくさん勉強するらしい。
そのような教育法を採用できていない時点で、大人たちがその価値を理解していない可能性が高い。
※但し、既存秩序に自動的に組み込み、言われた通りに動くロボットを大量生産するために仕組まれたものであるなら、致し方ない。(この辺の性質こそ、日本人が評価されてる部分と重複してる気もします。)


さて、「個」の確立に絡むことをいくらか証明できたんだろうか...。
自分でも分からなくなってきたんで、一旦終了する。





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根拠なんていらない③ 

なんと、いつのまにチキリンさんもBLOGOSにUPし、そして本日のサイト内記事アクセスランキングが1位になっているじゃないか!!
必要なのは“OZAWA 2.0” ---Chikirinの日記

と、今日はこれとまったく関係ない話しなんだが・・
55政党では随分と前から“根拠なんていらない!”という主張をしている。

これは主に子供の教育やしつけに関する話しなんだが...
●小さなことでもちゃんと順序立てて説明をし、子供当人に納得してもらってからアクションする姿
●どうして△△しなきゃいけないんだ!というような姿勢に対して、キチっと根拠を説明してアクションする姿
このような・・ いかにも素晴らしいかのような行為を、大変に深刻に思っているわけだ。

この部分に関して、まずよく考えなければならないのは“理由や根拠がなきゃ納得できない事項である”ということだ。(だから55政党では、根拠や理由を“言い訳”と解釈している。)
また、納得できる-できないような内容でなくとも、“頭が良い”とされている子供などは物事を関連付けして覚えていくことが多いようで、その姿勢もまた物事の多くに根拠や理由をつけ易い。

これの何がいったい問題かというと・・ そもそも根拠や理由というのは、合理性的な思考の中の話であって、世の中にはそれで収まらない事項など無数に存在している。自分自身の多くについてだってそうだ。ところが、何でもかんでも根拠や理由を求める習性を身につけることで・・ そのような説明のつかないルールや規則(性)を自身の中に取り込んでおく器(場所)が確保できなくなっている。


この部分について、自分の中で近頃の自我-超自我方面の考察と結びついてきたので取り上げてみようと思う。

まず、合理性的な思考は、やることも考えることも・・ 常に効率性や合理性を追求している。これは日々というか... 常に脳が行っている作業だ。
ところが、現実の世はそのような規則性や合理的性では解釈できないことで埋め尽くされている。
つまり、そんな優秀な脳が必至に理由・規則性・根拠・関連付けを行っている対象は、実際には正しくない・・ ということになる。優秀なのに、自身の行動方針自体が間違っているわけだ。
そのギャップのせいで自らドツボにはまっていく。...真に“合理性的”だというのならば、まずはそんな行動方針自体を取り下げるべきだろう。

ところが、それは自分を見る自分の存在がなければ気づくことができない。
とても関係の強い他者に指摘してもらったら治せるように思うが・・・ ところがその当人は自身を修正するにもやっぱり根拠や理由を必要としてしまうから、多くの場合は解決できないことになる。

自我の外にある、根拠や理由で説明のつかない何者かを認められるボディにしておかなければ・・ 後からの修正が大変に困難を極める。


これはつまり人間の成長と関係しているわけで・・ それを成人-青年の境に配置して捉えるのが、エリック・エリクソン的アイデンティティであろう。
本来ならば、成長というものにどっかで線引きすること自体がナンセンス--“死に向かってずっと成長している”と捉えるべきだろう--なんだが、社会と契約を結ぶラインが多くの国家で成人や選挙権と合致してくるわけなので、現実的には妥当な判断だということになろう。

誰の解説本だったか忘れてしまったが・・ 「知能の発達し続けている現代において、アイデンティティの確立は一層困難になってきている」というものがあった。

ここまでの55妄想は、この専門家の解説を逸れていない。
そして、この話しは“自律-他律”や“自我-他我”的発想に収まりきらない。

ポイントは、人間の精神構造(人間の存在の構造)にあるからだ。
一般的に言う道徳や海外の宗教など、自主規制や他人の目という律し方は、まだまだ自己が判断する知識の中(つまり自我の中)に収まっている可能性がある。知識は遠い過去から積み上げ続け・・ どんどん拡大していく。それは55政党で言うところの... 自我の拡大に等しい。世界を理詰めで捉えていくことが知識の拡大なわけだが・・ 理詰めで成り立っているわけじゃない世界をどんどん理詰めに焼きなおして行ってしまっているのだから、それは正しい道とは言いきれないわけだ。
ただし、そうであっても、自我世界の外の世界が自分の中に確かに存在していることを認識している限り、それは心配がいらない。

そここそがポイントだということになる。


ややこしい話しのように感じる人もいるかもしれないが・・・
要は自分の存在自体や自分の行動の多くに説明(理由・根拠)がつかないくせに・・ 何でこの世は説明がつくのか? ....ありえないだろう!?ってだけの話しだ。

そして今日の話しは、理由や根拠など思考(知識)と自我-超自我さらには発達を結びつけた話しになっている。

果たして、「自分が働く理由は金だけじゃない。」なのに、他人のことは「しょせんは金のために働いているんだろうが!」などと決めつけているようなユーシューな方々に届いているだろうか....。
自分がそうではないように... 他人もまたそうではない。
・・・これで初めてニュートラルな姿勢だ。

「本能だから」 ・・・それで納得できるか?

そんな話しだ。



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目的、方向、存在、価値 

55政党では、機会や時間、成長と葛藤、目的と手段、価値や意義などをよく考える。
自分の以前の記事を読み返していて... あしかがの藤棚の記事なんか、自分で書いていて泣けてくる。

たとえばそのように、素晴らしい価値があったとして・・
「価値があるからそれをすべき」とか「意義があるから目指すべき」 ....かどうかは、まったく別の話しだ。

今日はそんな話しなんだけど...
例えば企業は、「素晴らしい事業だからそれをすべき」なのではない。事業を興すのも、「それが大変有意義な事業だからする。」のではない。事業というのは、生きるために作物を作ったり動物を狩ったりすることと大して変わらないもので... 根拠や価値観など関係なく、必要なことだ。それらはつまり本来別の目的を持っている。
価値や意義は、それらの行いに後から付いてくるものであり、先に目指すべきものではない。
そしてその価値も、周囲の人々や時代・環境が決めていることであり、気まぐれやタイミングの問題かもしれない。それらがその事業を支持する理由にこそなれ、それがないといけないわけでもなんでもないものだ。

価値とは基本的に後から付いてくるものであるにも拘らず、それを先に決めて目指していく“逆走な”発想が、現代を歪めている原因のひとつだと感じる。
55政党では、消費行動(選択全般を指す)というものを大変に重要視している。ここをまず、自身の判断で決めなければならないわけだ。それらを保護しようとするタイプの動きに強く反対するのも、そんなことがあるからだろう。
安全・安心まで社会システムが用意してくれる現代は... 私に言わせれば進歩ではなく、後退だ。
進歩している部分とは、ひとりひとりが皆ひとり分を生きていい(存在していい)社会を実現したことだろう。

そうは言っても、ここ全般的に言えることは・・ 結局各自の勝手であり、ここで述べている主張は正解なわけでもなければ、強制されるべきものでもない。
逆に言うと、「そうありたい」と願う思いは、法やシステムで決めるべきものじゃない.... ということになる。
言ってみれば、『市場原理主義』ではなく、『消費原理主義』みたいなものか...。

私たち個々に任されている多くの判断が望むからこそ、その部分は繁栄・拡大していく。それが“望ましくないものだ”として・・・ 実は自分達が好んで選択しているからからこそ、それは栄えているわけで、口で何を言ったところでそこは回避できない。(「好んでいるわけではなく、そうせざるを得ないだけ」だとしても、それはつまり違う何かを優先しているということを回避できない。)
価値観を先に論じ、そして先に確定させることとは、自分らの実態とかけ離れていくばかりだ。


では、どうすればいいんだ...。
いや、この主張は「間違っているものを却下すべき」と言っているんであり、どうすればいいのかなんて私の知ったこっちゃないわけだ。「自分で決めろ」だ。

そんな中に在って、55政党が随分前からお勧めしている指標を再び載せよう。
社会 - 自分 →[マイナス?プラス?]  
世界 - 自分 →[マイナス?プラス?]
これは何も“自分”じゃなくてもいい。会社でもいいし、親としてでもいい。とにかく存在が入る。
要は、「いないよりはいたほうがいい存在(に違いない。)」と確信できるかどうか.... という話し。

自分もしくはその存在が、社会や世界にとってどんだけの価値があるのかは分からなくても、ほんの僅かでもいないよりいたほうがいいだろうと思えれば、つまり社会や世界に存在する価値があるわけだ。だって、ないよりはあったほうがいいんだから...。

これなら、先に価値観を決める必要がない。
存在ベースでの何の根拠もない判断だからだけど。
そしてこれこそが、私にとっての道徳だ。だから当然、人に強要できるものではない。

価値を先に決め、それを目指す場合・・・ その過程とはつまり、残念ながら当人だけにとって大事なことになる。過程はその人が信じる価値観を目指す(実践する)行程でしかないから。
その間にその人に関わってしまった人は、お互いの関係性自体や過ごした時間を共有出来ない可能性が高い。このような場合、時間が存在しているのは関わってしまった方の人にしかない。目的進行中の人には、ただ単に生命が老化していく時間が流れているだけであり、“過ごす時間”とは種類が違う。
正しいと信じるものを目指す過程がどれだけ当人だけのためのものであるかが示されただろうか...。まあそれでも、それを(そんな現状)を動かしうるのも関わってしまった人に懸かっているけど。


自己実現のため... そんなくだらないことのために、社会政治を動かす人がいる。ところが、動かされて不利益を被っているハズの我々愚民にとっては、どうなろうと結局頑張っていくだろう。(どんな世になってもそれなりに生きていくのは間違いない。)
支配者がそれを家畜のように見たところで、当の本人はそれを構わない(意識しない)のなら、何の問題もない。その環境に見合った幸せを見つけていくことだろう。
その姿を見た息子なりが「そんなでいいのかよ!」と言ったところで、結局それは“みっともない”とか... そんな程度の低い話しだ。

重要なのは、そんなみっともない存在であっても、世の中にいないよりはいたほうがいい存在であれば・・・ いたほうがいいんだ。
世界を支配する王は、いるよりいないほうがいい存在であれば、王はこの世にいない方がいい存在となる。だからと言って消すことは不可能だ。だけど.... それであなた(王)はいいわけなの?って話しだ。(三国志なんかでは、後世にどう語られるか... を大変に重視している。この部分は権力者が見る道徳と呼べるのかもしれない。長い歴史を学び、その中に在る自分を見つめることによって見出す道徳だ。だがしかし... そのために記録を改ざんする支配者も多かったようだけど。)

ここで正義感や価値観が前面に押し出される時.... 目的のために手段を選ばない人々が現れる。その手段のために誰かが犠牲になるとして... それはホントに価値のあるものなんだろうか?
55政党では、目的のためにも手段を選ぶことを“善”としている。
つまり、良い目的のために行動することは、善でも悪でもない。関係がない。


ここでいう善とか悪とか... それに消費(選択)する上でも、事前に価値観は存在する。
そんなショートサイクルでの矛盾に納得いかない人もいるだろう... 自分でも行き当たりばったりで進んだのでぶれているが、結局ここで言ってることは・・・ ①価値は後から付いてくるもので、価値観は先にあるもの ②人間の存在は価値観の目指すものと違う法則で動いている(価値観とは自我であり、存在は自我の外にある) つまり③価値は人が決め、価値観は自分が決める ということだ。


結論的には、どんなに素晴らしい価値観であろうと、それは自分だけにとって重要なことだということになる。


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『超自我』から見る社会 

先日の『誰かを悪人に仕立て上げることで自身が善人気分にひたれる』にて、久々に自我や超自我について触れたが・・ その中の
■■□
世界はそれぞれが自分を中心に考えるしかないとして・・ それでも、自分から見た世界と、世界から見た自分が存在する。
自我とは、ここで言う“自分から見た世界”の世界であり、超自我とは結局のところ“世界から見た自分”のことだ。時と場合によって、ここで言う“世界”というのは認識を変える。
学校にて考える場合は、ククラスメイトとして・・ だったり、生徒として・・ だったり。
街中で考える場合は、若者として・・ だったり、地域の住民として・・ だったり。
つまり、世界から見た自分を意識することで、それは他律が発生することになる。そんな自らを律するチカラを通常は超自我と呼び、それは結局そういうことだ。
そんな超自我を自我の中に取り込んで統合させることを自己同一性(アイデンティティの確立)と呼び、多くの状況下において、自分から見た世界と世界から見た自分を同時に認識することを可能にする。
□■■
について、自分で書いていながら、引き続き気になっている。
現代の日本において、超自我を考えることはきっと役に立つ。

ウィキペディアでは、超自我とは
■■超自我(独: Über-Ich)
超自我は上の二つ(エス・自我)の層をまたいだ機能で、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制を自我に伝える機能を持つ。この機能がエスや自我を強く押し付けているとき、自我がエスの要求を通すことができずに防衛機制を働かせることがある。超自我は前頭葉のはたらきと関係があるとされ、現在でもそれは妥当と考えられる。

・・・・と、出ている。
それ以外の人の意見に目立つのも、道徳やルール・規制方面だ。

しかし55政党の妄想する範囲では、むしろこのウィキペの“前頭葉のはたらきと関係がある”を重視している。

前頭葉の働きを端的に表現している記事がある。
超自我 ---心という海さん

『前頭葉は次々に生起する事柄を記憶の中で組織化したり,与えられた環境で適切なプログラミングをし,それに基づいて組織的な反応をしたり,文脈(条件)によって適切な反応にスイッチしたり,不必要な反応を抑制したり,将来を予測,期待するというような種々の知的能力に関係することが示されています。』という部分ほか、前頭葉はザックリと経験や体験や記憶に関連しているようだ。


私のこの考察は、心理学の勉強ではない。あくまでも社会考察だ。
その線をあくまでも逸れないで考察を続ける。


意思や感情とは、自我にない。意思や感情を言葉に表し、自己に認識させている部分からが自我の仕事だ。意思や感情の源泉はエスまたはエスと自我の間にあると考えて間違いないだろう。
自我とは、エスからの命令を処理するために働いている。
私たちが考える日々の思考には、意思はないんだ。
そしてこの2行から分かることは、自我は本来自身に制御機能を持っていない。命令を終了するまで働き続けるに違いない。

そしてその命令の根本は基本的に本能を満たすことであろう。生命の維持やリレーだ。
そしてそれには自己以外が関わってくる。
自己以外との調整--それは自我のエンドレスな回転の制御にも関係していくる--を図っているのが、経験や知識という記憶によって積み上げられた超自我の存在であろう。

経験や知識を自身の今ある状況に照らし合わせるには、自己や自己以外を客観的に捉えることが必要になってくる。そして経験に根拠はないが、知識には根拠がある。ところが、根拠と言う時点でそれは自我の仕事になっている。
・・・いや、知識を根拠に自らの行動(選択)を判断するという場合、知識にも根拠は無い。それを採用する理由に根拠などない。

「戦争は多くの人を不幸にした。だから戦争をしてはいけない。」
・・・いや、それは今戦争をしてはいけない根拠とはなっていないし、不幸とはなにか?を確定させなければならない。そしてそもそも、何故多くの人を不幸にしてはいけないのかも説明されない。

知識を経験・体験の疑似体験と捉えられるかどうかは専門家にでも聞かなきゃ分からないが・・ ここで重要なのは、根拠があるのかないのか?だ。
つまり、知識にだって実は根拠は無い。

この辺を考えることで、ようやく“自我が出した答えを制御する超自我”と納得がいく。
と同時に、現代はこの自我と超自我の境界、根拠というもの、つまりその結び目が何か深刻なものを抱えていると感じさせる。


果たして知識とは、経験・体験からの関連付けを行うことなしに、ホントに制御するチカラを持っているのだろうか....。

人は、常に考えて・・ そして自分の行動や選択を意識して、動いているのではない。エスや本能の要求をすぐに解決できないからこそ考える。それを考える必要もないほど反復して身に付けた経験則は、もう考えなくなる(必要がなくなる。)

知識と経験は、記憶の違う部位に保管されていると考えるのが自然だ。
そして結局のところ超自我は、それを適用することを仕事としていると捉えるべきだろう。
そして重要なのが、知識による適用は結局思考(つまり自我)の域を出ない・・・ということだ。

そしてさらに、成功体験や失敗体験のように・・ 経験則は自覚している以上に自身の行動に影響を与えている。
知識は、自覚できるし変化する。
記憶は変化するだろうが・・ 蓄積されているハズの経験自体は本当は変化しない。それは認知レベルで変化しているだけだ。
ということはやはり、知識と経験は別のところに保管されているか、活用のされ方が違うということになる。


超自我と呼ばれる自我の制御機能が、アイデンティティと関係していることは間違いない。そしてそんな自我の制御機能の形成が、現代の大きな問題と関わっているのも間違いないだろう。
そして恐らく、思考する上で引っ張り出してくる先も記憶だし、超自我が判断する経験等を引っ張り出してくる先も記憶であるからこそ、そこに大きな問題が潜んでいる。

思考する上で引っ張り出してくる記憶は、それは既に自我領域での仕事だ。
55政党の主張でいけば、ここがアイデンティティの確立を疑う多くの優秀な方々の発想に通じる。
存在自体を問う(律する)ために用いられる客観視的な視点で活用されるものが、自我領域に入り込まない規律であろうと考えるわけだ。
であるからこそ、内側から見た自分と外側から見た自分の統合が自動で行えることをアイデンティティの確立と規定している。
そして、知識や論理でない経験(体験)の不足こそ、その道を別ける手がかりとなっているに違いない。


知識や思考の発達した現代人が困難に陥っているのはアイデンティティの確立なのではなく、超自我の形成にあるのではないだろうか....。
そしてそんな知識や思考の発達した方々に見られる別の特徴として、エスからの命令までも自我に取り込んでしまっていると感じられることがある。




・・・これはあくまでも、社会を考える上での題材であって、心理学の勉強ではない。
まあ要は、自分も考えながら書いているだけで、そのような妄想がいつか進歩する土台となるだろう。



【追って追加】
55政党では、これまでに“存在自体をカガクしなければ”などと言ってきている。
存在自体というものは、認知は出来るが、理論も根拠もない。
そして本能やエスの要求の根拠も意思も.... 誰も知ることが出来ない。
だがしかし、それは確かに在ることを知っている。
理性が展開する理論や根拠などの思考の世界は、自分が収まっているその箱自体を知ることが出来ない。
超自我やアイデンティティは、そこに係っているんだろう。

そしてそれは、相手を認めること・許すこと、失敗や葛藤と成長のこと、成功体験やパワー信奉のことなど... 55政党でこだわっている多くのことに関係している。


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