7年経ちました

55政党というブログからの

合理的な発想 

これはややこいい話しではなく...
「大人だったら当たり前!」程度の話し。

車を運転していてここ数年特に感じるのが、「ウィンカーを出さない。」「ウィンカーが遅い。」人がかなり増えているということ。
それはもちろんカーナビの普及による影響もあるだろうが.. 場面的にはどーみても「ウィンカー軽視」だろうと思われるケースが多い。
タクシーだって、ウィンカー軽視が増えている。

55ではこっち方面の話題、度々触れているんだが..
車の運転というのは、「自分がどんだけ上手いか?」ではなく、「人からどう見えるのか?」が重要。※1

事故原因で多いと言われているのは、わき見、居眠り、一時停止不停止らしいが.. これは重大事故など統計を取りやすいものだろう。交通事故の大半は「民事で片づけて!」って感じの.. 警察が原因を確定させないものであろう。


●事故は不測の事態で起こる

ということは、合理的な選択として
①日々、不測の事態をかわせる訓練を積んでおく。
②不測の事態を自ら起こさない。

・・合理的な選択というのは、このようになる。
①は実質不可能だろう。②が、ここで言っているウィンカーと絡む。

車の運転にどんだけ高度なウンチクを語ろうが.. それを採用(優先)しない時点で、その人は大変情緒的だということになる。
ところがその人らは.. 不測の事態は「相手が悪いから」とか言い出す。“いい-わるい”を問うてるんじゃなくて、“事故を起こさないように”を問うているのに。

ウィンカーというのは、それを見越して右に寄る人・左に寄る人・曲がってくる車をケアする人がいる。
当たり前の話しだ。
つまり、ウィンカーを出さなかったり、遅かったりは・・ 全て不測の事態を自ら進んで作り出している。

暗くて狭い夜の住宅地域での信号待ち..
ちょっとした通りに出る信号待ちの先頭の車はウィンカーなし。ところが、後ろに車が来るとウィンカーを出すってパターンも多い。ところが... 青になって曲がり始めたら歩行者も待ってたりする。
夜は歩行者は見え辛い。あのままウィンカーなしだったら.. 前の車はヘッドライトの視野に突然歩行者が入ってきていただろう。実際には、ウィンカーが出ていたので、歩行者のほうが車を警戒していた。
そして(いい-悪い は別にして)運転が上手い人は、前の車が右に曲がるか左に曲がるか直進かで待ち位置を微妙に変える。後ろについてからウィンカー出されると.. その人らは若干残念な気持ちでいるだろう。
バイクは、左折待ちの先頭がいると、明らかにその車の前で待てない限り左には付かない。ところがウィンカーが先に出てないと.. 「おいお~い!」状態になる。信号待ちじゃなくて、青になるタイミングだったら.. 当然いきなり危険な状態となる。

そういうドライバーは.. 自身は周囲を全て掌握してるつもりなんだろうか?
別に夜じゃなくても.. 大きい交差点だと、全てそのような状態になっている。



...と、こんなことだけが言いたいのではない。
近頃はホント立派な理屈を言う人が増えてきている。
ところが実際に取る行動(選択)は、大変に情緒的だったりする。

そもそも理屈(思考)ってのは、全て合理的なものだ。
なので、合理的な判断をするかどうかを左右しているのは、合理的な理屈を“実際に採用しているのか否か”に懸っている。
にも拘らず... 相変わらず、合理的な理屈の優劣を競う。

情報と目的(意思)が一緒であれば、合理的な理屈はほとんど誰でも変わらなくなる。
理屈が人によって変わるのは、目的と情報量に差があるからだ。
そんなものの優劣を競って.. 一体どうしたいのだろう。

そして経験とは、理屈では到底ありえなかったハズの発想(視点)を啓示するキッカケをつくる。
多くの現実を演繹的にきっちり考える人らには、それは大変に興味深いことであろう。


車社会の話しでも、実は、そのような目(事故)に遭ったからこそ、そこを強く意識するようになったりする。
だけど.. 私は事故を起こしたことはないし、起こされたこともない。もちろん多くの幸運も手伝っているだろう。
自分が人を見て判断するように.. 人も自分を見て判断している。
こんな当たり前のことが分かっている人なら、何も事故になど遭っていなくても.. ウィンカーの重要さは理解してるハズだ。

思考(合理的帰結)に信頼を置き過ぎている傾向、そして「自分は悪くない」という子ども性... 
近頃の大人(な外見の方々)は、ホントこういう人間が増えている。

起こす種をばらまかないことが、個人の自由が尊重される社会であり続けるための『責任』だ。
起こしたことを金で解決する・ケジメを付けるのは.. それは『社会契約』だ。
そして前者は法律に乗らない。法律とは社会契約の取り決め。


小学校で道徳の教科書を使って効果のない教えをするぐらいなら、いっそ大学で“ノブレスオブリージュ”やハイエクの自由関連を必須にするべきだ。
※結果的な最短コースは、経験・葛藤・失敗によるアイデンティティの確立だろう。



おっと、そんな人らにはこの注意が必要だった。
※1「人からどう見えるのか?」は.. 当然ながら、「上手く見える」とか「安全に見える」とかじゃあない。直進するのか、曲がるのか、車線変更したそうなのか・・ そんな程度の話し。


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部活の重要性 

このような話題はきっといくらでも上がっているのだろう...
しかし、私が日々疑問を感じるのは、能力主義とか効率的発想をする方々に、チームプレーというか、ポジションの分担の意識が欠落していることだ。
「じゃあ、全部あんたがやったら!?」とでも言いたくなるような、ユーシューな方々は明らかに増えてきている。

『部活』がそんな部分の手掛かりとなるかもしれない.. という発想で話しを始めてみたわけだ。

例えやや能力不足だとしても.. チームで活動するよりなく、そしてそいつにそこを任せるよりない場合... そいつなりの成長こそが、全体のレベルUPになる。
また、そのポジションで担うべき役割をカバーしきれなそうであれば、その役割の一部を周囲に分担して何とかするという方法もある。

そのようなチームでなくとも、例えば同じ企業に勤めているのであれば.. どうにもこうにも使えないヤツであるのなら、お茶くみでも忙しい人たちの世話でも.. 奴隷のようにこき使ってやるのが正しい道だ。
使えないヤツ当人が.. 『俺ってやっぱ能力がないんだ』などと自分ばっかり大切な自意識過剰なヤツであるならどうしようもないが、自分の能力が不足しているのを実感した上で、その組織にとって何かしら役に立ちたい(もしくは役に立たなきゃ首を切られる)という一人の人間としてちゃんと立ってる人間であれば・・ 奴隷だろうと何だろうと、使われることで生かされているわけなんだ。

その状態であるならば、組織にとって『居ないよりは居た方がいい』状態となり、人は生かされる。
ところが、今どきのユーシューな方々の中には、自身の正しいと信じる教科書のようなものを引き続き押し付けたり、「お前いらない」などという風に、抹殺してしまうケースがある。
「おい、ちょっと待ってくれ.. 抹殺するくらいならパシリでも何でも、手伝ってくれよ」と思う。


その“差”は、一体何なんだろう...。
そう思った時にまず浮かんだのが、この『チーム系部活』だ。
人の思考は、今どきさぞかし論理的で演繹的なように思われるが、しかし、発想の仕方や選択肢とは、実際は経験や習慣付けにより左右されているのが実体であろう。

組織というもの、チームプレー、共通の目標、成功体験、葛藤含む感覚の共有など.. これらを身をもって知っていることが、発想の仕方に影響しているんじゃなかろうか..。

銀行や省庁などでは、野球やラグビーやレガッタなんかがかつては好まれていたが.. これらはむしろ、役割分担の度が過ぎる。むしろ『秩序の中にある個人の頑張り』を強く意識しているように感じる。
サッカー、オーケストラ、バレー、バスケ等.. 前出のような感覚的なものを身につけられる機会が多いように思う。

まあ近頃の大人は、プロを目指してこその部活みたいな発想を子どもに押し付け、むしろ残念な結果を招いているが..。それは、落後者(ダメ人間の烙印)を増やす取り組みでしかない。

ちなみに、サッカーは、何もJリーグというまともなサラリーを得られるプロが誕生したから流行ったのではない。
多くのサッカー好きは皆知っている。サッカーの流行は『キャプテン翼』のおかげだ。
間違っても、職業に出来るからではない。

また、キャリアプランを強く意識するような高校サッカーであっては、どうしようもない。
高校サッカーは、静岡学園や野洲のような“イケてる”軍団のような存在が素晴らしい。
かつての帝京のような.. 『勝てる世代に的を絞って強化し、ほかの世代を犠牲にする』ような、商業ベースなものは大変にさもしい。

オーケストラだってきっと.. 大会で勝てるものが必ずしも素晴らしいとは限らないだろう。

常勝軍団がしばしば官僚的な状態となって、本来の目的を逸脱していくように.. そのこと自体(取り組んでる対象)から目的が移っていく時点で、衰退は始っている。


おっと、話しが逸れていくが..
コミュニケーションが希薄となり、個人の勝手型個人主義が蔓延し、勘違いの平等という.. とんでもない(へどが出る)悪趣味な発想が幅を利かせている現在には、チームプレー型の部活の繁栄が重要な気がする。

大英帝国は未だに、ユニオンジャックな国々で集まってスポーツ大会をしている。
それは、帝国の集結やコネクションの機会だけではないハズだ.. きっと。



ちょっと追加する。東大は、しばしば素晴らしい研究成果を発表する。数年来で、私のような一般大衆の耳に入るような研究成果は、やっぱり東大・京大が多いだろう。
しかし、だからといって.. それが東大・京大の質を保証するものではサラサラない。こんなことは優秀な方々なら中学の頃にとうに理解しているであろうことだ。
『東大・京大は、素晴らしい研究成果をしばしば発表する。(または頻度が高い。)』・・・ただそれだけのこと。それ以上でも以下でもない。

女だから劣ってるんじゃない、精神病だから危ないんじゃない、黒人だから凶暴なんじゃない... 但し、どれもそう思われてしまう要素はある。それはきっと当人ら自身にも理解し得る部分であろう。
ここで重要なのは、それをひとくくりにすることや、社会的に保護することにある。
差別されている(という)人らも、社会的に保護や優先されない範囲でも、人生を送っている。当人らは、差別を受けている(という)時間・場面でも、そのように生きている。
何が言いたいか.. それは、差別されていようがいまいが、そんな自分として生きてくよりないし、現に生きているということは間違いないんだ。

『当人が差別を主張する』・・これは、さびしい話し。
「私は、レッテルの通りです!」など言ってないで、そんな自分を認めてあげなきゃなんないだろう。

『そんな人らを他人が主張する』・・これは、悪趣味な話し。
正義感丸出しで自身の人生のエッセンスにしている。人は大小様々そんな生き方をする。だからそんな人らは扱う対象の趣味が悪いという話しだ。




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今一度、「合理性」について 

随分前にこの本について触れた。


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これは私が大変に参考になった本で、今一度取り上げておきたい。
タイトルは“合理的”だが、中身では“理性”を含んでおり、またその二つの概念は相重なる部分が多い。
なのでタイトルは“合理性”とした。

学者さんらは知ってるかもしれないが・・ 私たち一般市民の多くは“理性”というものを、本能を抑えつけるチカラだと認識している。しかしこの本によると、理性とはあくまでも本能の要求を叶えるために存在している。
現実の多くの諸問題を包括して、何とかそれを叶える方策を練るからこそ、“本能的”と呼ばれるような衝動的な行動を抑える働きになることが多い。

頭の悪い(実際には、知識の価値や必要性を軽視しているだけ)人たちはよく、そのような短絡的な手続きを踏むが.. それは実際には知恵や知識が足りない(それによる成功体験が足りない)のであって、バカなんじゃない。
このことから逆に分かること.. そのように先を見越して事前に策略を練ることが“理性”ということになる。

また、そのような策略を幾重にも積み上げていくことを合理的と言い、その二つの概念をくっ付けて私は“合理性”と呼ぶ。この二つの間に共有が多く、その境目や隙間を包括することができる。


世の中で使われる“合理的”の多くは、ただ単に“効率的”(つまり経済的)で、合理的は本来理論に整合性がなければならないものだ。
本来は合理的ではなく、効率的でしかないもの... 例えば「90%の確率で正」を正とみなす発想、そのような発想を積み重ね(または下敷きにして)ていった結果に得られる答えらしきものがある。
それは実際には、90%x90%x90%x90%x90%で59%... 一つ一つの物事をわざわざ正解を決め、そしてそれらが積み重なって論を導き出す。それが主に5つの土台を持つものである場合、合理的(いや、効率的)発想では明確に答えが出るのであるが、現実は59%で、ほぼいちかばちかレベルだ。

そうはいっても、そのように段取りしていくしかないんだ!として... それは答えを出さなきゃならないからなんであって、考察に真摯な姿勢とはとても言えない。


私たちは、ろくに高校すら卒業していないようなギャルやヤンキーが、決してバカではないことを知っている。
それは知恵や知識が自身にもたらしてくれた成功体験が若いころに得られなかったことが大きいハズだ。
それともう一点は、人間関係のカタチを知らないことも多い。主従関係、利害関係以外のカタチを身につけてこなかったことが大きい。それらは、幼いころに理屈抜きで体験・実感しなければ中々得られないものだ。

そのような心理学的視点の、私にとっての教科書は、エリック・エリクソン。と言っても、『ライフサイクル、その完結』(みすず書房)しか持ってないけど。
どういうわけが大変人気がないが・・ お勧めだ。



※写真は後日、アマゾンリンクに修正。


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たったひとつの判断 

郵政西川さんが降りた件....
まあこれはもうしょうがない。
鳩山邦夫という人の時は、同じ考えを共有していると思えるハズであった上に、それを推進した当人から血を受け継ぐ内閣であったために.... そして何より言い分があまりに理不尽だったために、大反対意見を展開していた。

しかし民主になってからは、もうこれは話しても無駄な相手だと分かっているから・・ この件はあきらめていた。
郵貯銀行とかんぽの資金は、国債買い取り&箱モノから、また違った方向からの国家資金にすり替わったわけだ。せめて未来のある資金になって欲しいものだ。あとは政投銀を見守るしかない。


やや話しが変わるが、加藤和彦さん。
私の場合、この方は大変なワインマニアとして知っていた。このところ55政党では触れていないが、私もワインオタクだった時期があった。その頃に読んだ雑誌の中での、加藤さんの“ロマネ・サンヴィヴァン”の話しはとっても印象に残っていた。

自殺.... 「音楽は必要とされなくなったし、自分も創作意欲が失せたし~」みたいな話しをちょっとテレビで見た。
そして一部には、“うつ”が関係しているのでは?という話しもあった。

私が知る範囲でのうつ病の方々の症状は、激しく落ち込むことでも、生きてく意欲が失せることでも、未来に絶望することでもない。
皆さん共通しているなぁと感じさせられるのは、思考がグルグル回って結論を出せない。自身で何か決めることが出来ない。・・・という部分。
「こういう風に答えると、こう思われてしまう。」「こういう態度をとると、こうだと思われてしまう。」 ....なんかそんな感じに考え始めると止まらないようだ。そして「そのことに答えを出させるなんて殺生な。」くらいのところまで行ってしまう。

自我は答えを出せない。当人なりに論理的に考えた結果をはじき出すだけだ。
優秀な人ほど出た答えに従順で、それに従わざるを得ないかのような行動を選択するが・・ そうではない普通の人の場合、実は結局その答えがシックリいかない・納得できない・やりたくない場合は却下する。それどころか感情(感覚)が納得できるよう... 思考を捻じ曲げさえする。
そもそも、そのことに対して考えるのは、気になってしょうがないから... 程度だったりさえする。

思考に意思は無いし、意欲もない。思考は与えられたミッションをこなすだけだ。(論理は必ず、仮定や前提や意思を必要とする。これは鉄板だ。)
エス-自我-超自我の話しで行けば、あえていうなら意思や意欲を持っているのはエスになる。
超自我も思考以外に作用するから一見意思がありそうに思えるが・・ 超自我は存在自体を律するチカラであり、それは条件反射・無条件反射・習慣に近い。自己を自己と認識しないパートを担っている。

・・・とと、これは完全に私の妄想なんで、あてにしないで欲しいんだが、それでもつまりはこんな部分に“うつ”は絡んでいるんだろう... と思っているわけだ。

自信というのは、実は理論的根拠と関係がない。傍から見てどんなに優れているように見えても、その当人がそれに自信を持つかどうかは関係がない。
つまり、論理的に測ったりして形成され得るものではないので... これもまた自我の外の世界に関係している。
自信過剰と極端な自信のなさ.... シンプルにいうとそんな印象を受ける躁鬱状態も、やはり自我と自我の外との関係の仕方に絡んでいるんだろうと妄想する。



年齢なりに年を重ねてきた人生の大先輩方々なら恐らく、人の判断というのはひとつふたつの判断でその対象者の人間性の多くを見切る。いや時と場合によっては、ひとつの判断が全てを表すに違いない。
いやいや、その判断とその当人との距離感(付き合い方)で、その人を見切るに違いない。

決着をつけるそのたった一度の判断は、それまで何度も却下してきたタイプのものなのかもしれないが・・ それでもやはり、その判断はたった一度きりの判断に違いない。
「自分と向き合う」などとよく表現するが・・ それは自分の存在と自分の思考(自我)を向き合わせるもので、それぞれ別の存在のようなものが在るわけだ。
自分を内側から見た自分と、自分なりに外から見た自分... この2つの自分(実体は1つだ)の関係性が、ひとつの判断から垣間見える。
その関係性が変化しない限り、どんなに変わったように見えてもその人の判断は大抵大差ないものだろう。(せいぜい、分かり切っている範囲だ。)
但し、その関係性は一瞬にして変化(成長)させることも出来る。


・・・
まったく話しの違うことをいっしょくたに話してしまった。
判断の話しと人間性の話しはまるっきり違うものだ。
もう遅いんで、今度機会でもあったらまた考えよう。



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昨日だったか... はてブ人気エントリランキングで『僕の邪悪なメモ』さんという方の記事が面白かった。
生活保護の本当の問題点

生活保護の支給を受けている世帯の割合は高齢による支給が45%を占めていること。
そして高齢者の個人金融資産の一人当たりの平均値(日経ヴェリタスからのデータ)が出ている。
60歳代平均が3132万円、70歳以上平均が2382万円。
そんな平均値には、当然生活保護を受けている高齢世帯の人数も含まれているだろう... それを考えると平均値の威力が一層高いことが分かる。


年金や世代間格差の話しは55政党でもだいぶ前に取り上げてきたが・・ 私なんかのザックリ計算では確か1人あたり平均で800万ぐらい.... と計算していた。これは大きく修正しなければならない。
まあそれでも私の主張も、同世代間の相互扶助だったけど。

寿命も伸びているし、医療も発達している。生きている間にどうこう... というのは現実は難しい。
それを資産運用などしてくれればまだいいのだが、タンス預金が確定している人のお金は恐らくもう引っ張り出せない。
55政党では、“相続や生前贈与を全額回収してそれに充てて欲しい”としている。もちろんこれは国債の買戻しに充ててもいいが、相続税は今既に75%くらい持ってかれる。配偶者へのケアはもちろんしなければならないが・・ 子供や兄弟に配っていい理由などそもそもない。
子供の場合など、そのタイミングで既に親の経済的恩恵を十分に受けている。
稼いだお金は国家や時代に感謝して納めてしまうのがむしろニュートラルであろう。
今現状で相続税や生前贈与が何に使われているのか知らないが、これだと相続税特会ってことになるわけだ。

しかもこの個人金融資産はあくまでも金融の話しであり、土地は含まれていない。
だから財産が国家に没収される感への配慮も必要ないだろう。
大した額ではないのかもしれないが、出来る手立てではあろう。



それと.... 全然別件だが、池田信夫さんの『希望を捨てる勇気』を買った。

希望を

後日触れよう。


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