7年経ちました

55政党というブログからの

龍馬伝を見てて思いだした.. 

今回の龍馬伝は、隠れキリシタンが出てくる。
仕事場で龍馬伝の話題になって... ふと思い出したことがある。

駅で言うと本千葉にほど近く、住所的には長洲あたり。
千葉駅から、三越、パルコ... そして千葉県庁、蘇我と一本で繋がる通りがあるんだが..
数ヶ月前、その県庁をちょっと過ぎたあたりで、車の列に詰まりながらふと通り沿いの若者集団が目にとまった。
「ムム.. 怪しい感じ。」
若者に怪しい教材を売らせるような.. そんな業者みたいのか?それとも労組か?
って感じに、建物の入り口でたむろする若者に何か一律に同じ空気を感じる集団があった。

その時は、そのまま通り過ぎ、別に気になんなかったんだが...
ひと月ほど前も、人の車で通り過ぎた時に... やっぱその建物入り口にたむろする若者集団が見えた。
ザックリ皆大学生くらいに見えた。
そして.. 昨日ですよ。夜7時くらいか。

昨日は大通りではなく、そこと交差する小道を走っていた。
近くには、新しくてでっかい千葉県警や千葉大医学部なんかもある地域。
コンサートなんかもやってる千葉文化会館もあるが、本来はそれほど人がずらずらと歩いてる理由も光景もあまり見られないところだ。

信号待ちしてて.. 急に若者の歩く姿が目についてきてそしてなんだか皆同質的な感じ。
「あ、そうだ.. ここは!」って思いだして、ふとその3階建てくらいの建物にカンバンがあるのが見えた。
「何々.. 冨士大石寺なんちゃら」
「ムムム... これ、宗教じゃないか?」

そして調べてみたら、あった。
冨士大石寺顕正会

そしてそして思いだしてきた.. 恐らくここだと思う。
もうかなり前、6年位か..
知り合いが「どうしても池袋でそれっぽい人に会わなきゃなんない。どうしよう...。」ってんで、私は無知なもんでしょうがないから同行してやったことがある。仕事上の付き合いでむげに断れないらしいいんだ。そしてその仕事に絡む話しってことなんだが、知り合いが言うには「多分宗教っぽい話しだと思う。」と..。

んで池袋の喫茶店で会った。同席云々など「あ、そうですか」程度で気にもせず... 知り合いは何か必死で仕事の話しを振るんだが、どうもむこうにゆとりがあって、空気が向こうのペースに流れていく。
そしておもむろに「でですね...ニコッ」って感じでバッグからパンフレットを出してきた。
それが確か、『日蓮なんちゃら・・顕正会』だかってやつだったように思う。
「おー 来た、来た.. 宗教だっ!」って感じで見てたけど、まあ結局は難を逃れた。
とりあえず知り合いは、理屈的な話しをしようとするんで、私は感覚的な方向に話しを変えて軽く介入し、また理屈っぽくなってくから軽く修正し、でも傍観者的な感じにしてただけだが...。※まあ、仕事の縁も切れてしまったらしい。




別に私は、宗教など知ったこっちゃないんだが..
ここで気になるのは、若者ばっかりだということ。
そして、このあたりは昔っからよく通っていて、多分こんなの数年前には無かったと思う。
つまり、勢い的に伸びている気配を感じるということ。


まあ、先ほどネットでみた感じでは.. どうやらしぼんできている気配だが、かなりやらかしてる宗教なようでもある。そして創価学会と対立してるようだから、もしかしたらノイズも多いかもしれない。

私の周囲では、学校の同級生の親が学会員ってのが一人いたが、そいつ自身はたまに“おしきみ”と言ったか( 仏壇に供える木というか葉っぱ的な..)を買いに使わされることがあったぐらいで、それ以外別に一切そんな話しはない。そして千葉は稲毛というところには、子供のころから学会の文化会館があって、何か集会があると一発で分かるくらい、入ってく(または出てく)車が列をなしていた。
そんでもつまり何が言いたいかというと.. 私の中では創価学会は大人の宗教ってイメージがあった。

ところが、この顕正会は... 大学生どころか、高校生まで勧誘してるんだね~。
現に私が見た本千葉のそこは、そんな年齢層の若者たちばっかりだったし。
これは危険だよ。

55政党では、『宗教は政府の管轄の外にある。なので、宗教が政府の管轄内に関わってくる部分しか介入できない。』としている。
だけど、若者は別だ。
この辺は、強制介入すべき。通常関われないということは、こういう場合は適法云々など気にする必要がない。強権でいいんだ。※但し『みんな無視してるからこそ、沈静化してきてる。』って可能性はあるかも。






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今日ははてブランキングで大変新鮮で素晴らしい文章を発見した。
その方のその他エントリーも、繊細で、細心で、且つ非常に論理的な主張をしている。

内容は主に性や暴力の規制について。
ちょっと前から話題になっているテーマだから.. 今厚く議論しておくのはいいかもしれない。

言ってる内容は大変論理的で.. 論理面で左右を別ける深さの部分がどこにあるのか、私には分からない。理解できない。ただ、法規制について重要なのは、社会と自分の関係性についてであって.. 件の内容について論理的な話しが進んでいくと、社会と自分との関係性から逸脱していってしまうことは理解できる。


社会にはいろんな人がいる。
幸いタイトルのように病名が付いてる人もいれば、“何とも言えないが・・ アブノーマル”な人もいるだろう。
しかし、そんな自己達が形勢する社会では、各自がどんだけ何だろうと.. いち社会人として等しく扱われるよりなく、逆にどんだけ立派な病名が付こうと.. 社会からはいち社会人として扱われなければならないし、扱うより仕方ない。経済的・人的支援をすることで等しくいち社会人として扱ってない!と解釈することもできるが・・ それは方向が逆で、社会人として社会に着地させて上げなければならないからこそそれを目指す現実的な手段として存在していて問題ない。

彼女に対する幼女の頃の罪は.. 大変に重い。現在まで数十年それを引きずっているようだ。しかしだからと言って、そのようなことが繰り返されないためのあらゆる手立てを講じるベキかどうかは別問題だ。

社会政治と私たち個々が結ばってる線を考える時.. 誰が何をどう思っているのかという部分には触れることは出来ない。ここは実際に誰が何をしたのか?という深さで止めるよりないんだ。※明らかに監視されるべき対象等は別にして。
但し、コトが起きた時にそれを解決するためのチャンネルを、皆に等しく用意されていることが必要だ。
そしてコトが起きないようにすることは法律の外にあって、各社会人一人一人に要求されている相互関係性だ。


そしてテーマとなっている大変深い議論も.. 結局は ●現実を受け入れること ●存在を認める(許す)こと が隠れたメインテーマになっていることであり、そこを回避し続けた上での議論は深さに矛盾していいる。


きっと、精神・心理の専門家からすれば、“犯罪並みだ!”と思えるような日常のそれとない行為などいくらでも存在している。そうであっても、各個人と社会を結ぶ線で線引きするしかないんだ。

現実を受け入れるしかない!
・・それがとても、強かったり、残酷だったりと感じる人はいるのかもしれない。
しかし、それを認めずに抵抗し続けたとしても、受け入れたうえで過ごしたとしても.. 実際にその人の周りに起こる出来事自体は何も変わらないハズだ。
つまり、受け入れるしかない。

同じような不幸が人的もしくはどうにか出来ると思われる要因によってもたらされたからこそ、苦悩する。
どうにもしようもないものだと思われることによってもたらされた場合、それは悩まないだろう.. 選択肢が存在していない。


だからつまり、社会が有意義だと感じる考察は、●現実を受け入れること ●存在を認める(許す)こと の科学の促進にあるんだと思う。
そして人には感じない恐怖に怯えているからこそ、それを守ってくれようとする伴侶が現れた可能性は否定することは出来ない。

私には、ひとりで生きていける強さがある。そしてどんなことでもやっていけるような器用さがあるという。
さらには、面と向かってるだけでプレッシャーを感じるほどオーラを感じる人もいるという。(まさか!)
...であるならば、私はもっと不器用で、そしてもっと欲深い人間になりたかった。

アンディ・ガルシアが主演の『男が女を愛するとき』がリンクする。
愛情一杯で何でもしてくれちゃうし、何でも出来てしまう素晴らしい夫と.. それゆえに悩む妻。
そしてそんな心情まで汲んで、そして受け止めようとしてしまうからなお辛い。

わざと手を貸さないようにするのは、私も普段平気でやる。しかし、わざと気付かないフリをするのは難しい。
既に気持ちをくみ取る(感じ取る)ことが出来ることを知ってしまっている相手にとって、こっちがどうしようが、相手は「感じ取っている」と思っている。
そもそも相手の気持ちに気付かないような人にとっては贅沢な悩みだろう.. しかし当人たちは同じように悩む。
「いいに越したことはない」とか「大は小を兼ねる」わけではないんだ。
対人ということになれば、そうはシンプルにいかないんだ。


被害者はいないという大きな男の人たちへ
表現が規制されるのはその表現が既に暴力で脅威だからYO!


そういえば.. 暴力を過度に否定する現職大臣がいる。ひょっとしたら当人こそがパワー信奉なのkぁもしれないが・・ そんな部分を注目こそすれ、その大臣を否認したりはしない。
私とその人を結ぶ線は、『国民』と『代議士』でしかないから...。






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企業とは契約書の束 

前項と話しは繋がっている。

以前55政党では、法遵守姿勢批判に対しての反省として、この“企業とは契約書の束”の話しをした。企業自体は株主でも顧客でも従業員でも・・ それぞれは全て契約でしかない。ところが、その中にあっての各企業だったり、各個人だったりは、それ以外の多くのジャッジをしている。

社会におけるそれぞれの関係性を規定しているのは契約だが、コミュニケーションとは契約がすべてではない。契約外のジャッジ、契約のいらない関係、規定するまでもない事項など・・ 契約以外の判断はいくらでも存在する。

法治国家について、それを規定する範囲は、取りきめが必要な事項だけであろう。
ところが・・ 特に右寄り左寄りな発想は、そのような規定をする範囲に価値観や習性を持ち込んでくる。
本来、自由主義陣営が主張する法治の範囲とは、そのような部分に介入しないことが前提であろう。ところが、雇用制度などについては、終身雇用や年功序列批判・・・ それはハナっからどこにも規定されているものではない。そんな部分に私は常に気になっている。そこはきっと、経済戦略的範疇に入っているから口出ししたくなってしまうものなんだろう。

価値観は、環境や経験によっていくらでも変化するものだ。
「大切にしなきゃいけない!」のは分かるが、それは規定すべき範囲の外にあるもの。
国民と当該政府との契約事項にそれを含めるべきかどうか・・・ そういった発想はあまり見かけない。

そしてもう一つ重要なことは、“契約とは、わざわざ結ぶまでもないことは規定しない”性質を持っているということ。それを結ばなきゃいけない時点で、利害や認識が相反する事項である。当事者同士が合意している事項の場合、それが例え違法だとしても採用してしまい易い。当事者同士にとってあたり前の事項は、わざわざ規定しないし、確認もしない。
経済学的視点に立ってしまうと、合理的性をどうしても強く意識してしまう。そもそも“経済的”とは“効率的”と似たようなものだ。

社会政治の場合、“規定する中身”より以前に、“規定する範囲”を強く意識していかなければならない。


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政治を取り巻く議論は、『国家意識過剰』-『皆平等!』-『自由に任せろ』陣営の対立のように意識してしまいがちだ。
ところが実際は、今から何かを変えようとするそれらの主張とは、たったの今からのベクトルの奪い合いでしかなく、いずれにしても今まで積み上げた歴史や環境の上にしか存在できない。

新しい知識や価値の真の敵は、今まで自分たちが歩んできた過去にあり、それ無しでは現在の存立を認めることができないんだ。
そしてそれは当たり前に日々日常であり、私たちは常にそのような作業を繰り返している。
過去をなかったことにするの不可能だ。未来は妄想でしかないが、過去は実際に存在している。
そのような過去を踏みしめていない(現在を踏まえない)人間に、どうして未来の時間を大切に思えることができよう... そのような姿勢自体が当人にとっての実績を表している。


素晴らしい発想や理論は大きく社会を変えるかもしれない。
ところがその適用にあたって、今いる立ち居地の是非が問われないことは間違いの元となってしまう。どんなに標準化されうるものであろうと、今いる場所によって違うということを無視してはならないんだ。



『神の雫』というマンガの21巻に、最先端の技術や調査、そして優れた醸造学教授の作るワインの話しと、脈々と受け継がれてきたワインの話しが出ている。
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優れた技術や理論の実践だって素晴らしい。そして受け継ぐことがとにかく重要なのではない。
だがしかし、多くの人々や背景の中でリレーされてきた実績・・ それは何者にも変えられないものだ。
パーカーポイントで高得点を上げる新たなワインがあるだろう.... しかし、真に大事なことは、そこから歩んでいく道のりであり、それが次の日からの歴史になる。直近のベクトルに左右する評価とは、ゴールではなく、始まりでしかない。
多くの人が"一番素晴らしい”ワインの名を上げるとするとロマネコンティと言うだろう。
ところが、一番おいしいワインは?と聞かれると、話しは違ってくる。あえて一番多くの人に名が上げられるとしたらペトリュスか..。
だがしかし、きっと今もロマネコンティはたゆまぬ努力を続けている。そして、看板に胡坐をかいていた時代もあったろう... 時代の被害にあったときもあったろう... そのような道のりの先にある今に、多くの人が価値を感じているわけだ。そして、であるからこそ、ロマネコンティはこれからも期待にそえるよう... 努力をしていかなければならない。


理論や制度の優劣を争うのは当たり前に重要なことだ。
だがしかし、適用される対象の存在を無視された競争は、それを主張する当人だけが重要なことであり、そんな競争にドップリ浸かる発想は空虚だ。

小泉改革は、橋龍改革があったからこそ、ある程度成し遂げられた可能性が高い。
だからそれは、小泉さんの能力や新自由主義やワンフレーズ戦略のおかげだとは言い切れない。
但し... 橋龍改革がもしなかったら、それはそれで戦略を変えていただろう。
そしてこれこそが、理論や技術が背景や適用先によって変わることを逆に証明している。

55政党は、ずっと自由主義陣営寄りだ。
だがしかし、理論だけの優劣を問う傾向に疑問を感じる。
そしてそのような姿勢自体が、自由主義と矛盾する。




今日の話しは終わったんだが・・ 『神の雫』に登場するチリの新参ブランドの話しを取り上げておきたい。それは"Cono Sur”(コノスル)というメーカーなんだが・・・ マンガ内でこのワインは、100%手摘みであることやコストパフォーマンスが評価されている。
だがしかし、それは●広大な土地を確保でき ●過去のしがらみもなく新たなノウハウを純粋に取り入れることができ ●非常に安価な人件費であること が可能にしていることだ。
素晴らしいものを提供するからこそスタートを切れるんだが・・ 試されているのはこれからなんだ。

それは何も、ワインに限ったことではない。
新しいコンセプトタウンを作るには、まとまった土地としがらみのない住人が手っ取り早い。
既に出来上がっているものを望むように変えていくことは大変に難しいんだ。
ところが、東京の江東区などはむやみにマンションをおったて、幼稚園や小学校が足りないという。であれば5年もすると今度は中学校が足りなくなるのであろう。15年後にはそれら学校類は不要になり、30年後には老人街になってしまうんだろう。
そのころには当然、新たな街が新たな場所に出来上がっている。
街は使い捨てだ。

これは新しい政府圏を作るとか... 新しい通貨圏を作るとか... そんな話しにも結びつく。
自分らで作り上げたハズの歴史や秩序は、いったいなんだんだろう・・ という話しだ。

スクラップ&ビルドは日本の得意技であろう... しかし、変化(成長)していけるボディであることが重要であり、それは自由主義的発想の一部に確かにあることだ。




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道徳教育 

ニッポン大好き陣営の多くに、「道徳教育の強化」を主張する人たちがいる。
私の場合、道徳の重要さを理解したのは、F.A.ハイエクを読んだからだ。
道徳や慣習こそが、自由主義の心臓と言っていい。(少なくとも日本では。)

そのように私は、道徳を軽視していない。
しかし、教育とはあくまでも、その存在を知ることが効果の限界だ。
そして道徳は、社会に実践されていることだけに価値がある。
その概念自体は大事ではないんだ。

では子供たちが道徳を身につけるにはどうすればいいのか...。
それは①それを強要する人がいること ②それを破ることで親が責任を負うこと ③それが実践されている存在を見ること だろう。

もし昔の道徳教育に効果があったんだとすれば、それは教育自体が強要されていたからんだろう。
ただし、実際に効果を及ぼしているのは、それを守る大人の存在と、それを厳格に規律しまた、それを自身がしないことで親が大変に残念がる、困る、責任を負う環境にあったことにある。

理詰めや根拠を優先する躾では、道徳教育になど効果があるわけがない。何一つメリットも合理性も見つけられないからだ。
そのように私は、根拠がないこと、強要すること、理に叶っていないことを重視する。


例えば安倍さんなんかを支持する方々の意見、それらの多くには同意できる部分がある。何よりもまず、自分が自分である必要があることが前提となっている部分だ。ここを回避していかなる人生論も不毛だろう。
そして私もこのように道徳を重視する。そして武士道など・・ それが私にとっての宗教だと言ってもいい。(宗教は、善悪の判断を決めている。武士道や道徳はルールではない。自らを律するのみ。だからこれは、法律以外に自身を律するものという意味に於いて。)

ところが、そこから先がとたんに分かれ道となる。
道徳や武士道に関係しているのは、まぎれもなく社会に存在する自分であり、つまり社会との関係性の話だ。ところが、コミュニケーション自体への理解と言うか配慮が足りていない。
そして、答えが出ない決着を採用しないことにある。

道徳や慣習とは、必ず守るものではない。自らを律するのみだ。
つまり「それを大事にしていこうよ!」と呼びかけるくらいしか強制力がないわけで・・ 答えが出ないものを採用しているということだ。ところが、道徳の大切さを説くとすると・・ 答えを求める。(その絶対価値を確定させる。)
社会に在る私事を、社会に強要するのは間違いだ。


まあ、つまり何が言いたいかと言うと・・・
日本ではコミュニケーションの科学が不足しているということ。
自らを律する姿勢は、正しいものを求める習性を身につけてしまい易いが、コミュニケーションには何が正しい、どちらが正しい、片方だけに問題があるということは基本的にあり得ない。

そしてこれこそがアイデンティティ(自我同一性)と関係している。
ニッポン大好き陣営の少なくない方々には、アイデンティティの正しい理解が不足している意見が見受けられる。
自分で自分を律するということを重視するということは、他人がその当人自身で自ら律することを重視するということだ。
それがアイデンティティだ。


これでようやっと主張したいことは見えてきただろうか...
●道徳は、その価値を強要するのではなく、自分が大事にし、そして実践することこそが価値。
●日本にはコミュニケーションの科学が不足している。


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