7年経ちました

55政党というブログからの

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55政党では、法律や政治に関して考える中で、何度か「結局は人間性の問題なんじゃないか!」と言ってきているが・・ 昨日の加藤さん論を読んで、その思いに自信がついた。

誰かを悪人に仕立て上げることで、あたかも自身が善人か正義の味方であるかのように感じれる・・・ そんなどうしようもない大人が主張するような“こどもの権利条例”等のとんでもない法律を、どれだけ減らしていけるか?こそが、私たちの国家に試されている。

自身の人生のエッセンスに加えるために平気で不特定多数を貶めるような人間が作る法律がどれだけ少ないか・・ まさにそれこそが、これからの日本国(人)に試されている事項だ。(リピート気味だが...。)


そのような自己認識の著しく劣っている発想から、脱皮しなければならない。
世界はそれぞれが自分を中心に考えるしかないとして・・ それでも、自分から見た世界と、世界から見た自分が存在する。
自我とは、ここで言う“自分から見た世界”の世界であり、超自我とは結局のところ“世界から見た自分”のことだ。時と場合によって、ここで言う“世界”というのは認識を変える。
学校にて考える場合は、ククラスメイトとして・・ だったり、生徒として・・ だったり。
街中で考える場合は、若者として・・ だったり、地域の住民として・・ だったり。
つまり、世界から見た自分を意識することで、それは他律が発生することになる。そんな自らを律するチカラを通常は超自我と呼び、それは結局そういうことだ。
そんな超自我を自我の中に取り込んで統合させることを自己同一性(アイデンティティの確立)と呼び、多くの状況下において、自分から見た世界と世界から見た自分を同時に認識することを可能にする。

冒頭のような、幸せなくらいの勘違いっぷりを展開する方々は、そのような意味で“自己への認識の足らなさ加減”と繋がるわけだ。

片方の方向が存在する時点で、それは必ず反対側からの方向が存在する。
それは日々のコミュニケーションも同じことで・・ 自身が発信しているハズが、同時に何かを受信している。自身が影響を与えているつもりが・・ 自身も影響を受けている。


人間は、種の保存本能がある時点ですでに、社会性が組み込まれている(両性具有ではないから...)。但し、自己以外は基本的に自己がコントロールできない。自己と自己以外との関わりを、自身はコントロール出来ないということだ。
そのような中にあって、自己と自己以外が影響しあうことを認識(確認)できるような機会とは・・ 大変に素晴らしいものであろう。
そしてそれが素晴らしいものだからといって・・ それを“目指すべき”なのではない。それは成し遂げられたものが素晴らしいというだけの話しであり、合理性的に目指すこととは一切関係がない。

本来、合理的(もしくは経済的、もしくは効率的、もしくは合理性的)というメカニズムは、本能を満たすために存在する。理性は、本能を抑えるために存在するのではなく、結果的にそれを満たせるよう・・ 論理的に、計画的に実践するために編み出されたものであり、つまりそれが合理性的ということになる。
そして仕事や勉強どころか・・ 私たちは日々のちょっとしたことにも効率性(つまり経済性)を意識する。生きることとはほぼ経済性の追求の日々と言ってよく、そしてそのメカニズムの持つ本来の意味(本能を満たす)ことと分離して活用され始めるからこそ、精神に支障をきたすのであろう。









影響を与えることで影響を受ける例を、本日もモーニング娘で表す。

●雨の降らない星では愛せないだろう


出だしはリーダーである高橋愛ちゃん、そして次にサブリーダーである新垣里沙さん、そして次は亀井絵里リン.... とここで次に流れていこうとしたカメラがピタっと止まる。
日頃は、おちゃらけキャラで、そして自分に甘いキャラである亀井えりりんが泣いている。
この子はあまり自己以外の世界から影響を真に受ける印象のない子だ。自分が好調なら飛ばし・・ 自分が感傷的なら泣く・・ そんなイメージの子だ。

歌の歌い終わりと同時に... 3:45あたりで、ガキさん(新垣)は観客というかその空間に向かってとても小さな拍手をしている。そしてその直後の愛ちゃん(高橋)は、ブルブルっとなっている。

このような姿は、モーニング娘のライブ映像を見ていてとても珍しいものなんだと思う。(私は全部見ているわけではないので...。)
このツアーについて、全日程終了した後日にBAYFMで語っているものをやはりYouTubeで発見した。ガキさんが「みんなも歌ってください」と言ってこの曲がスタートしているそうなんだが・・ その時の観客の合唱がとてつもなく、鳥肌が立ったと語っている。
それはきっとこのライブ自体が大変に素晴らしかったからこそ、観客がそのような状態になっている。そしてその合唱に影響されて、きっと亀井ほかがそんな状態になっているのだろう。

そのようなことを当然知っているヲタさんなんだろうか・・・ 上の動画がどうやら売られているDVDのものと近いんだと思うが・・ 観客の声を強調加工した(むしろ本当の状態に戻した?)画像も発見した。
是非見比べてみて頂きたいところだが・・ “埋め込み禁止”となっているためにリンクを張った。
●雨の降らない星では愛せないだろう

機会とは、素晴らしいものだ。
そしてただそれだけのことだ。



【10月4日 追加】
雨の降らない~ でまた別の映像を見つけた。
映像の最後の最後... 4:30過ぎの青い子は、感極まって泣くのをこらえている。
これはまだ、ライブが始まったばかりだ。



偽善じみた歌詞に嫌悪感を覚える人もいるんだろうが.... 世界という横の繋がり、タスキを渡す使命という縦の繋がり、そしてそんな時空の中で今ここに立っている自分を感じるとても素晴らしい曲だと思う。



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モーニング娘に学ぶ② 

モーニング娘には、妹分といった感じのBerryz工房(ベリーズ工房)と℃-ute(キュート)というグループがいる。
この3組は、ハロープロジェクトというくくりでライブツアーを行っているようだが・・・ ベリーズ工房の子らは比較的歌が上手い。モーニング娘では、高橋愛と亀井絵里だけがその実力を上回っているように感じる。
そしてどうやら、踊りはキュートはかなり上手いらしい。



そこで、「一体何が違うんだろう・・」と思うわけだ。
もちろん、モーニング娘は歴史と知名度が明らかに違う。が、それ以外にも何か感じるわけで・・ じっくり観察するんだが、まずは“あかぬけさ”が違う。これは恰好や売り方の影響があるのだろう。年齢は恐らくそれほど変わらないんだと思う。では、可愛さか?いや、それほど大差はないんだと思う。

う゛う゛....
っと、見て行くうちに感じたのは、“おざなり感”や“やっつけ感”がないということだ。それと表情から指先までの集中力が違う。モーニング娘のメンバーの表情づくりはかなりの努力によって成り立っているものだ。それに同じ振付でも表情を感じる。

それはもちろん、要求度が違うし、指導側にかかっている予算もだいぶ違うだろう。そして、その活動にかける当人らの意気込みや力の入れ加減も違うに違いない。

・・・これらをひとくくりに表すと、それはつまり“背負っているものが違う”と解釈できるんだと思う。
多くのタレントさんは、当人自身とタレントとしての自分の人格は違うという。それは演じているという意味合いよりも、周囲が知る(求める、認知する)人格と素の自分が違うという意味。
自分サイドから見た自分ばかり重視する今どきの発想では、とてもそのようなことの重要性に気付かないだろう。
そして当人たちも、モーニング娘という看板に安住していては、いつか滅びていくわけで・・・ 今の自分たちこそが、今のモーニング娘の歴史を作り上げて行っているわけだ。

それと個性も無視できない。
ちょい悪キャラでも、軽薄キャラでも、ブリブリキャラでもなんでもいいんだが・・ それが似合わない人間がそれをするとなんだかむず痒い感じになる。

ハロープロジェクトの所属する事務所の関係には、五木ひろしさんなど演歌とのつながりが深いようで、古典的な(正統な?)歌唱力強化の色を強く感じる。そのせいでか... ベリーズ工房さんの歌のうまい方など(キャラクターと相まって)アイドルチックなものとは違うオーラが出ている。
やはりアイドルはアイドルに成りきるのが似合うキャラクターが望ましい。


・・・と、このおおよそ2点のポイントは、個人の能力・実力の限界に結び付いている。
個性、環境、積み上げていく時間を強調した主張だ。
スペック至上主義の浅はかさを主張しているわけだ。



それと、また別の視点の話しなんだが・・
このモーニング娘というのは、聞くものではなく見るものであろう。それを音楽として認められない!というのは自由だが、わざわざ同じ土俵に乗せておいて貶す姿勢も問題がある。
“見る音楽”だって、それは十分に価値のあるものだ。

ステレオを大音量にして聞く音楽
カラオケでこそ盛り上がるような音楽
ヘッドフォンがんがんで聞く音楽
広場や空間で皆で共有する音楽

それらはそれぞれ、関わり方の面で価値のある音楽だし、事実、それらそれぞれに必要としている。
私は実は、ユーチューブでUPしている映像のほとんどがライブ的映像を選択している。
じっくり見るタイプのものだったり、聴くタイプのものだったら、ユーチューブでは無理だ。んだからだろうか・・ ユーチューブでとても好印象を受けるものの多くが、ライブ的なものになっている。

・・・そこを考えるとき、MDウォークマンを持ち歩いていた時代には、私はHi-Standardを大音量で聞いていたことを思い出す。
そして、i-pod(私の場合はi-riverだったけど...)を持ち歩いていた時代には、エレクトロニカ系をさかんに聴いていた。
たまたま行ったサマーソニック以来、野外ライブが大好きになった。映像で音楽を見るようになったのもそれ以降からだと思う。

そのように、場面なり自分の状態なり関わり方なりによって、それぞれに価値があり、また、ふさわしい手段(道具も)がある。







※ここからは、昔を思い出しながら拾ってしまった完全なる私事で、昔を懐かしんで載せただけのものです。
私の場合、小学校の頃はザ・ベストテンとかトップテンという歌番組を見ていた。
中学に上がると洋楽ブームになり、カルチャークラブ・デュランデュラン・ワムをよく聴いた。
そしてしばらくするとビリージョエル・スティーヴィーワンダー・ボンジョヴィなども流行っていた。
この中学~高校の頃は、国内では尾崎豊やBOOWYが名を上げた時代だったのだが・・ 私が好んでいたのはレベッカくらいだった。
そっから何故だかパンクに進む。
ウィラード・ラフィンノーズ・ブルーハーツ。
大学~社会人前半は、とにかく何かあるとカラオケだったので・・ 流行り歌+サザンを聴いていたことぐらいしか思い出せない。
そして20代も後半になってスノーボードにハマり、メロコア・スカコアを気に入っていた。
それがHi-Standardやスネイルランプだ。この頃はドラゴンアッシュも今のような民族チックなものではなく、メロコア+ラップっていう感じで、好んで聴いていた。そして椎名林檎もそのころだ。
そっから今度はエレクトロニカにハマったが・・ エレクトロはとにかくアーティスト単位で買っていくというのが困難で、覚えているのはレーベルぐらい。とにかくお茶の水のジャニスで借りまくってアタリを探していた。メジャーではアンダーワールドのBorn Slippy Nuxx がとにかく好きだった。
サマーソニックはそれ以降で、その時にかなり良くて以降にCDを借りまくったのが、リップスライムとアジアンカンフージェネレーションだった。有名どころはオアシスで、会場中がなんと英語の歌を歌っていたぐらいだったが・・ 私は名前すら知らなかった。














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モーニング娘に学ぶ 

以前に『モーニング娘やSMAPに感心する』と出して以来、ちょくちょくモーニング娘のYouTube映像を見ている。
そして今ではすっかりファンになってしまったようだ。


私はここでほぼ自由主義陣営を支持する意見を展開しているが、それでも“日本人らしさ”を完全に軽視した発想には否定的だ。
“らしさ”など作り上げられた虚像だと捉えることは可能だが、それでも今既に自分がそうである以上それを避けることはできないし、国家というものにはそれぞれの歴史や状況や個性があり、“同じ制度”が同じものではないと考えるのはむしろ真っ当であろう。
ここで重要なのは“らしさ”を制度で強要すべきかどうか・・ であり、“らしさ”を無視するのは歴史・経緯を無視することと同義に他ならない。

アイデンティティを自分の根源かのように捉え、日本人らしさや国家・国益を過度に重視し、法制度に組み込もうとする右翼的発想は支持できないし、男女平等・弱者救済・世界平和を過度に社会に要求し、目的のために手段を選ばない左翼的思想も支持できない。

その点、自由主義陣営に最も同意できるのは、何を法制度とすべきか・・ をカガクしている部分にある。この世のほとんどの物事は、その対象と自己との関係性こそが何よりも重要である。どれだけ重要で、そして皆に理解されている価値観であっても、それを制度化すべきかはまったく別の問題だし、逆に皆がそのように支持する価値感であれば、わざわざ法制化する必要がなくなる。

それに、自己以外の存在は、自分が好きにしていいわけがない。(私の主張では、自己ですら自分の自由ではない。)つまり、自分が何かを重要だと確信しているように、他人もまた何かを重要と考えているわけで・・ それを強要することなどできないわけだ。もし、その他者がまだまだ経験不足であるためにそれを理解できていないと確信していたとしても、それを経験する機会を奪っていいのかは微妙なところだ。そうでなければ当人はそれを確信することができなかったかもしれないわけだ。

そして、制度は人を作るかもしれないが... しかし、制度とは結局活用すべきものであり、縛られるものではない。つまり、どんな制度にしようと結局は自分たちがそんな世を作っているということから逸れない。


自由主義陣営の中には武士道や道徳というものを大変に軽視する方々がいるが、ハイエクなどを読めば分かるように、自由主義は決して道徳や慣習を軽視していない。というかむしろ、重視している。ポイントとなるのは、あくまでもそれを法制度に盛り込むべきではないということであり、道徳・慣習と法制度の二段階の社会秩序システムを指しているわけだ。第一、道徳が法制化されれば、それはその瞬間から道徳ではなくなってしまう。

私の場合、その道徳や慣習に係る部分として、リスク・機会・葛藤・成長・時間を重視している。つまりこれは法制度の話しではない。が、社会政治の範囲において、あくまでも自覚が促されるべき事項ではないか?ということを訴えているわけだ。
リスクを取らないこと、効率的な人生を選択することなどの価値観が、道徳・慣習を侵食していると考えるわけだ。

今どきの人々が、当人たちが自覚しているようにホントに合理性的になってきているというのならば、「成長は、葛藤の後にセットでついてくるもの」という... 鉄板な法則を、飲まなければならないことになる。そのような選択こそが“合理性的”というわけなんで。
ところが実際は、“成長”というのはキレイ事で、実際に必要なのは結果だけだというならば、そんな選択をする必要はない。但し、それだと“キレイ事”が必要がない。し、現にそんな今どき風な主張は、そのようなキレイ事や建前をきれいさっぱり排除したコミニケーションを見せる。

ここで問題が発生する。それは、命にも時間にも限りがあり、約束されていないということだ。大目的である結果Aを得るために、中目的BとCを実現する。中目的BとCを実現するために、小目的CDEを実現する。ということは、今実現しようとしている段階が小目的DとEだったとして・・ 思いがけず、命が終わってしまうもしくは大きな状況の変化が起こってしまった場合、基本的にそれまで費やしてきた時間は無駄となる。その実現に費やしたのは、そのことによって何かを身につけるのではなく、結果を求めていたのだから....。

そして人生とは、そのようなことだらけだ。
そして次に鉄板の法則が待っている。「結果というのは、先に求めるものではなく、後から付いてくるものだ。」ということ。それで望む結果が得られなかったと思うならば、それはそれまでに費やしてきたものが至らなかったということだ。


また、別の視点がある。同じように何かを目指すとして・・ 個人の能力を磨くことよりも、目指すものへ機会が与えられることの影響の方がずっと重要だということ。これは人間的なコネクションの話しにとどまらない。
人生ハウツーものの多くに、「より強く目指したいと思ったものが成功する」とある。ところが、“強く思う”には環境が必要なんだ。時には、「それしかない」というところまで選択肢が奪われなければならないかもしれない。時には、何が何でもそれをなさなきゃいけない理由があるのかもしれない。もしかしたら、自覚のないままに見事に洗脳されているだけなのかもしれない。いずれにしろ「思え!」と言われたって不可能な話しだ。
加えて近頃は、怠惰であっても社会が救ってくれる。

人は、まずは兄弟よりも... そして同級生よりも... そしてライバルよりも、先んじたいと思うものだ。安心・安全で平和な素晴らしい世界は、そのような人間の習性を削いでいる。



リスクはヘッジするものではなく、向き合う(付き合う)もの。
機会は大切なもの。自己の外の世界は自分の通りにはならない。ということは自己の外の世界と結び付くということは自分の努力だけではどうしようもないものだ。そして、時間をコントロールできる人間はいない。明日は分からない。
どんなに立派な人だろうと、どんなに怠惰な人だろうと・・ 人生の初心者であり、一回きりだ。そして皆に等しく24時間しかない。
そして、“自分にできることが自分がしなきゃならないこと”的な話しは、椎名林檎の時にも出している。
先の葛藤と成長を含め、これらの事項はモーニング娘の中に強く感じられる。

雨の降らない星では愛せないだろう』という歌に、“陸のない星にはならないように、僕たちが精いっぱい歌う”というフレーズがある。
みかん』という歌に、“人生は1回”とか“今日も明日も、毎日は24時間”というフレーズがある。
LOVE&PEACE』とい歌に、“誰も彼もが人生の初心者だから”というフレーズがある。
ここにいるぜぇ』という歌にも、“一度きりの人生”というフレーズがある。


これらは作詞をしているシャ乱Qのつんくの言葉であり、商売っ気たっぷりな戦略だし、ステキ事であろう.... しかし、この子らはきっとそのような機会・時間・成長・つながりというものの重要さを理解しているように感じられる。

かわいいと言っても特別とも言い切れない。そして特別に歌がうまいわけでも踊りができるわけでもない。これは妄想だが・・ 優秀な人間を選考してきたとはとても思えない。正直、若干頭も悪そうだ。
そのような子らが機会を与えられ、だからこそ必死に取り組んできて・・ そんな時間が今の自分を大切にするし、そして一緒に作り上げてきたことの素晴らしさを知っている。ただ単に“自分大好き”だったとしても、うまくいかない時やうまくできた時があるからまた頑張れるわけだ。
卒業というのは、別に意図があって始めたわけではなく、商業ベースでの話しに過ぎない。が、それがまた、時間や機会や出会いの大切さを痛感させられる。


そして驚くのが、歌も踊りも・・ 私の知るモーニング娘の水準を超えているように感じた。
リンリンという中国人の『青空がいつまでも続く未来であれ
そして高橋愛、新垣理沙、亀井絵里、田中れいな などは宝塚との合同のミュージカルに驚く。







リンリンさんは、リンクYouTubeの大体7:00あたりにソロが出てくる。
新垣さんは、ミュージカル1/16の6:40あたりの音域がスゴい感じだ。
亀井さん含め、この子らはモーニング娘ではあまり歌うパートが多くないように感じるが・・ 以前のヨッシーさん含め、つんくは低めの声をあまりメインにしたくはないのだろうか....。

まあ、これからも注目していきたい。


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実体と時間、関わり 

鳩山邦夫氏のニュースを追おうと.. 今日は報道ステーション、NewsZEROとはしごしたんだが、進展はなかった。それよりも大変に感動した番組があった。
所さんのダーツの旅とかやってる番組にて、『樹木医のつかもとさんという方を表彰する』というやつだ。

『あしかがフラワーパーク』というところの樹齢130年の藤の木・・ これが大変素晴らしいもので、当時から評判だったようだが、パーク移転に伴って植え替えなきゃいけなくなり、まあ藤棚から根っこからかなりのものになってしまう。ほっとんどの専門家に植えかえは無理だと言われたそうだが、それを引き受けたのがこのつかもとさんで、その作業の大変さ、当人の思い、そしてその藤を大変に想いをよせている方々を捉えているものだった。

「藤棚がキレイなことぐらいなら私だって知ってる。」そう構えていたのだが・・ 確かに素晴らしい。私が思っているよりもひと房ひと房がスラっと細く、そして長く垂れていて、それが薄紫の細雨か霧が降ってくるかのようにモワっと密集している。そんな藤棚が1本の木から60mm四方に広がっている。

植えかえは無事成功し、そして根も枝もだいぶカットしたのだが、今では元通り60m四方まで広がっているという。


・・・とその姿(眺め)を見るのは、確かに一つの絶景だ。
ところが、それが今その様に在ること、その経緯とか思い... その上で存在しているということ知る時、とてもじゃないが感動せずにはいられないものとなった。

きっとそれは以前も今も同じ景色だ。植わっている場所(所在地)が変わったに過ぎない。しかし、それは一つの絶景に過ぎない。数ある絶景のうちのひとつに過ぎない。
ところが、その木の歩んできた道のり、そのような人生(木生)があって今が在ると知ること、そのために携わってきた人の努力があるということ、そしてそれを待望している多くの人がいたということ.... それらを知ったとき、それは絶景のうちの1つではなく、まぎれもなくそれでなければならない存在となる。

以前と今はきっと同じ景色だ。
しかし、その存在は大きく違う。
本当に大切で、そして素晴らしいものとは何か... それを思い知らされる出来事だった。





それこそが、能力主義やスペック至上主義との分かれ道だろう。



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