7年経ちました

55政党というブログからの

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
CM: --
TB: --

欧米人への過大評価 

今回も、新自由主義に絡む話し。

日本人は、欧米人を過大評価しすぎている。
欧米人と言うのは、日本人よりよっぽど大雑把で不器用だと思っておけば粗方OKだ。
その分パワーに勝る。なので、勝負ではパワーを多用する。
・・それだけのことだ。


・株主の介入
・短期で結果を出す
・高額な役員

これらを絡めて考える時、欧米人のビジネスというのは、自社商品をコツコツと改善するような努力ではなく、絶対に勝てる勝負に持ち込むことを努力する。
そのために合併・新規格導入・政治・投資・新発明・広告といった方向にチカラを傾けてしまい易い。

コツコツ積み上げることは明日を保障しないし、それ以前にそんな細かい判断を下せるほど消費者も器用じゃない。

合従連衡、株主の移動、社名変更を繰り返し.. 企業への信任などあてにならない。
学術研究も、ホントに真っ当なのか微妙な新しい見解を喧伝し、それでまたパトロンの企業がひと儲けする。


つまりは、浅はかで底浅い事業を展開している。
細かいカイゼンを必要とするような分野は.. そういうのが得意な国の企業を買い取って任せてしまえばいい。
それには商習慣や会計基準がバラバラだと、買い辛い。なのでそれも統一してしまおうよ。


このような世界を新自由主義に見ているとしたら、それは間違っている。
それは欧米人気質がそうさせている。

日々めまぐるしく移り変わっていく社会であれば.. そのようなスタイルは適応し易い。
但し、一朝一夕では成し遂げられなかったようなものを産み出すことが難しい。
ところが、それはそれで.. 今まで積み上げてきたものが役に立たなくなってきたとしても、そう簡単には手放せなくなる。


・・・と、このように社会を見てはどうだろう。

そうすれば、日本の場合は、国がメカニズムを維持するのではなく、変化の兆しに対応することが重要なんだとすぐに分かるハズだ。

そして、国民自身が一つの意思で団結し、世界から利益を運んでくる気マンマンであるなら、また話しは違ってくる。ところが現実は.. 国民の意思はバラバラ。個人(の勝手)主義が蔓延している。なので、そのような国家像も当てはまらない。
そして前出のように、国民の消費傾向が重要な役割を担っている。
私たちがもっとバカだったら.. 企業はもっとアホになっている。

そのような現実に目を向けず、○○主義の教科書ばかり読んでいる人たちがいる。
理論と言うのは、それを目指すべきものではない。
それは新たな視点を産み出す作業であり、そっからまた同じ現実に新たなものを見つけることが出来ることこそに価値があるんだ。

社会に役割を追わず、社会から恩恵だけ得ようとするものがいる。それは多くなってきている。
なのでその分.. 税金を納める側も、歯がゆい。
それでは気持ち分だけ損。
現実は変わらないとしても、気持ちまでネガティブなんだ。

社会に役割を負うからこそ、その分社会から自由をもらう。
新自由主義は、そんな要求を迫られる分、気持ち分は取り返す。
(精神的な健全度が高まる。)

※一般で言う『新自由主義』を採用してますが.. 55政党では、これはあくまでも『自由主義』です。



スポンサーサイト
CM: 0
TB: 0
今日は今から、『新自由主義』というレッテルに絡む話しを2つ上げる。

まず、先日の『新自由主義批判』のようなブログにかみついた件。
まだ、引きずっている。

新自由主義(55ではあくまでも自由主義と取る)の何よりの肝は.. 『市場に全てを任せること』じゃあない。
それは新自由主義の教科書で取り扱っている内容だ。

日本では特に、その内容ウンヌン以前のことが重要。
新自由主義というのは、『それを目指して政治を運営する』ものではなく、国民自身の手でより望ましい社会を実現し易いメカニズムを研究しているもの。

なので、新自由主義国家を実現するために政治(立法)する!といったものとは種類が違うんだ。
分かる人にはあまりにあたり前の話しだが.. 分からない人にとってみれば、一体何を言っているのかまったくつかめないだろう。

繰り返すようだが..
国家政治が、あるカタチを目指して立法していくのではない。
政治というもの自体を、国民が自分達のチカラで自分たちの望む方向へ導ける体制にしておくべきだ。というのが、新自由主義。
だからこその、対峙する概念は計画統制国家(社会主義や共産主義)ということになる。

日本の場合は、資本主義を謳っている主に右寄りな方々でさえも、計画統制国家思想だ。
そして、大変勉強してきたような方々に特に見られる傾向が..
『目的を正当化することによって手段を正当化する』発想。
なのに当人らは、「どんなに素敵な目的であっても手段は重要だ。」と平気で言う。

55では何度も同じようなことを言っているけど...

誘拐テロが発生しました。 
→犯行グループは世界的にかなりやらかしている組織です。
→再びテロを繰り返さないために、人質の犠牲もやむを得ない。

このような発想を、そんな人らに感じるんだ。
新自由主義的発想というのは、

誘拐テロが発生しました。 
→犯行グループは世界的にかなりやらかしている組織です。
→人質救出を最優先した上で、その後必ずテロ犯を捕まえたい。

一見、弱い。
だが実は、今回の人質を犠牲にしたからといって、次にテロが起こる割合が減ることなど保証されていない。
どちらも保証されてなどいないんだ。
重要なのは、必ず捕まえるよう努力することしかない。


新自由主義と括って非難する人たちは、○○主義を実現するために平気で手段を反故にする。
そんな近代史は腐るほどあった。

そんな人らにとっての悪の権化とも言えるミルトン・フリードマンは『正しい手段を選択することが要』だとしている。(度々登場ですいません。)

手段というのは、目的の善悪や大小によらず.. 別の判断として存在している。
第一、まともじゃない手段が横行している世の中では、どんだけ立派な形態であろうと、まともじゃあないんだ。

さらに.. 新自由主義的発想は『そうは言っても、現実とはそんな理詰めなものではない。』ことも内包している。
目的も意思も価値観も個性もバラバラな人間たちが、なるべくより良い社会の維持・発展にベクトルが向くためのメカニズム。
・・・それが、新自由主義だ。


CM: 0
TB: 0
昼の休みでちょっと巡回していていくつか。

ネオリベは復権するか ---BLOGOS(Munchener Bruckeさん)
増税の為の立ち上げか?政策理念なき新党設立の目論みを斬る ---ポリシーウォッチ(竹中平蔵さん)


まず、これは先日のマイケル・ムーアの映画を見たから分かったことなんだが・・
このように言われる“ネオリベ”... これはアメリカでは間違いなく、理念であり意思だ。ところが、その様を見せつけられた上で感じたのは、日本ではこれは理念ではないということ。

恐らく冷静に現状を分析し、真摯に打開策を練るとそうなる  ・・ただそれだけのことだ。
それに対してわざわざレッテルを貼って攻撃する。

それがフェアな見方なんだと思う。
レッテルVSレッテルの戦いに持ち込んだのは小泉さんだろう... しかし、本来これは日本においては理念ではないので、現在“ネオリベ陣営”と呼ばれている勢力が冒頭記事のように『本当にネオリベ的な政策を理解させた上で支持を得ようとする』姿勢こそが、あえて言うなら自由主義的姿勢だ。

そしてついでにその記事について触れておくが、ネトウヨ論とかネオリベとか... 基本的にこの方もしくはこの方が捉える社会が既に、イデオロギー論争になっている。
もしかしたら、引き続きそのようなイデオロギー中心の世界は私の外に依然としてあるのかもしれないが・・ それはもう古い。捉え方が現実と乖離しているんだ。


そしてまた違った“古い発想”.. それが平蔵さんだ。
もしかしら“古い”のではなく、学者肌な方々、ユーシューな方々の発想は常にこうなのかもしれないが・・

『たちあがれ日本』は民主と連立し、増税に導こうとしている → その政策は間違っていると確信しているから阻止したい。

そうじゃあないんだ。
望ましい姿勢とは、たちあがれ日本の主張する視点、民主党の主張する視点、その他モロモロ.. それを真剣に議論していくことにある。
合理性とはどれだけ先を見越せるか?なので、確かに先を見越して今から手段を整えておくことは分かる。
もちろん日々日常などそのようなことばかりだ。しかし、ここで主張している自由主義というのは、そんな主義とあんな主義を持った人々の奪い合いなのではなく、双方ともが理解し妥当なところに落ち着けるものこそ実効力があるということなんだ。
そこを大事に考えるならば、当然、そのような仮想敵に奪われないという目的のための作戦の実行とは何の意味もなさない。

そう、これは民主主義にあるべき姿勢を問う.. 正しい習慣を身につける必要がある!という道徳のような話しになっている。

このような部分に対し、性善説-性悪説を持ち出す人もいるだろう.. しかし、そのモノサシではそもそも自由主義を測れない。進化論的発想を測れないんだ。
“あるべきカタチ”を目指すんではなく、“答え”を目指すんではなく、私たちがより良い明日へ出来るだけ努力を重ねていく.. そのこと自体を世界と捉えるからだ。

性善説-性悪説的発想とは、その対象範囲を支配する人から見た、まさに人をモノのような目線から見たマネジメントの発想であり、陳腐だ。実験じゃないんだから...。


CM: 0
TB: 0

私の個人主義---夏目漱石 

たしかAmazon繋がりだったと思う。
何か最近興味を持った本の“これも買っています”みたいにしてでてきたこちらの本。

私の個人主義

講談社学術文庫。

私は元来本を読むのがキライで.. ただ自分の中では必要に迫られて読んでいるようなものだ。
そして思想的なもののヒントが夏目漱石にあるような言われ方をしているものを何度か見かけたことがあるが・・ それはさっぱり分からない。『明暗』など、確か10ページも読まずに放り投げた。

ところが、この本はまず.. 薄い!から読みやすい。
そして内容はどうやら講演の内容を集めたもののようなので、メッセージはシンプルだ。

この中の最初のお題『道楽と職業』
何とこれは見事に自由主義的発想の一部になっている。

これを読む限りこの時代はむしろ、いまよりずっと“個人の勝手主義”だ。
但し、背景に日本人らしい見事なフェアプレー精神が眠っているので、そこがハイエク・ヒュームとは違うし、そのような機能を補足されることが自由主義には必要なのかもしれない。

だがしかし.. それは法政治の役目ではない。
個々がそれぞれそのようなもの大切に出来ていれば、グローバルな世の中になっても実現可能だろう。

あえて現実を動かすためにそのような部分を見るとすると、
情けない話しだが・・ 女性の倫理観に懸っているような気がする。




CM: 0
TB: 0

真に大切なことは法律の外にある 

政治が扱える範囲など本来は非常に限られている。
ところが、近頃は『法律を犯さなければなにしてもいい』的発想をする立派な大人たちが増えている。

法律つまり政治とは、人間性を試される場所ではない。
それは人と人つまりコミュニケーションを円滑に、そしてなるべく円満に運ばせるための手続きを決めているに過ぎない。真に大切な部分とは、政治の外にあるんだ。

なので当然、それを法規定などできない。
それぞれの人が、大切に思ったり・・ リレーしていくことでそれらは守られる。

そしてその部分こそが人間を試される部分なのであり、民度というものであろう。


私の言ってることは当たり前なんだろうか...。
であれば、差別だの文化だの愛国心だの友愛だの政治が言ってることと話しが合わない。

社会システムは法律と道徳・慣習の2段階があり、法律で規定できるのは法律(つまり政治)のみ。
逆に、文化や道徳が廃れてきているとすれば、それは現在の大人たち自身が望んでなった姿だと認識しなければならない。そしてそれを政治家がどうこう言うのではなく、まずは自分の子供や周囲にしっかりと実践すべきであろう。それをせずに政治の場で訴えているようでは、どんな立派なことを述べていようと、民主政治を理解できていないということになろう。(リアル政治の世界とは別。あくまでも法律部分を動かすための現実的な手段として活用している分には問題ない。)


私たち一般大衆は、法律で規定すべき部分と、そうでない部分をしっかり別けて考えていかなければならない。
そしてコミュニケーションについても著しく劣っている部分がある。
コミュニケーションとは常に双方向通信であり、片方だけが悪いなどということはほとんどあり得ない。
発信する側と受信する側が存在し、なお且つ双方が線で結ばれているとして... いくら発信側が信号を出したくても、受信側が受信ボタンを押さない限り、そこには何も流れない。そして受信側がそれを受け取ったとして... 法律が規定するのはその線についてであり、線自体は双方共有の線であると捉えるよりないわけだ。
それに対し、発信側の言い分や受信側の言い分とは、それぞれの背後に結ばるまた別の線の話しになる。

もうちょっと分かりやすく言えば、イジメで片方だけが悪いということなどほとんどあり得ない。
同じ仕打ちを受けて、それをイジメと認識しなければそれはイジメではなく、認識すればイジメになる。果たしてそのメカニズムに法律が介入できるだろうか?
そしてそれが子供である場合、そんな状況を打開することそれ自体が基本的に人格形成の場であろう。それはいじめてる側にとっても同じことだ。
これらは当然例外のケースもある。ただ、基本線から間違っているものはどうにかしておかなければならない。

さらに、ではイジメというもの自体を傷害罪等規定出来るようにしたとしよう... それでも未成年には参政権がない以上、未成年同士を法で裁くことはできない。あえて裁くのであれば親が対象となり、じゃあ子供のいじめ問題で親が裁かれるのか?って話しになる。
法で護られてるどころか... 法に縛られてる哀れな国民って話しだ。


社会全体から、認識されていないような種類の迫害を全て自身で受け入れてきた結果にアブノーマルになってしまったとして.. そのアブノーマルが引き起こしたことが当人だけの責任だとは言い切れない。但し、成人である以上等しく社会的責任を負うし、そこで線引きするしかない。その線引きを決めるのが政治(つまり法律)であり、つまり本来は絶対的な線でもなんでもない。だからこそ皆で話し合ってきめるしかないんだ。※自身が自覚しないうちに人を傷つけていることなどいくらでもある。それがコミュニケーションだ。それをその場でわめけば善悪が確定し、当人が何とか吸収すれば、善悪の存在すらないことになる。喚き得は公正なルールか?


コミュニケーションにおいて、片方を善、片方を悪と決め付ける姿勢... これは政治で扱う姿勢ではなく、既に法廷闘争に入っているような姿勢であると捉えなければならない。
そうではなく、真剣に正義のために戦っているとすれば・・ 周囲の人は当人の大きな勘違いをなるべく早く治してあげないとならない。※リピートだが・・ コミュニケーションに片方だけの責任などほぼあり得ない。




CM: 0
TB: 0

▲Page top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。