7年経ちました

55政党というブログからの

政治の基本的な部分について 

この話しは、政治学云々よりも、もっと基本的な部分の話し。
理想主義的発想、価値観偏向、学術重視といった部分で、どうしても理解し合えない(つまり話し合う事が出来ない)層との対話を試みる上で、再度立ち返って考えていきたい。



【構造を変える必要がある】

現代人が抱える問題の多くは、人間及び社会というのは『自分(または自我)』『自分と自分の外との関係性』『肉体』という3つの構造物から形成されているにも関わらず、『自分と自分の外との関係性』の部分が欠落していることが原因であることが多い。

また秩序においても、国民⇔国政(水準を落としても同じ)の単層構造から発生する世界観が目立つ。
社会秩序というのは、『国民』『国政』『道徳・慣習・倫理』の3つの要素で検討すべきであり、2層構造になっているものだとしなければならない。
つまり、社会の問題を解決するにあたり『より良いアイデア→即政治』とはならないということだ。


そもそも、理想郷を思い描きがちな方々の多くは、発想の根底に性悪説・基本的不信を抱えているにも関わらず『法運用=人々が必ず従う前提』といったような、大よそ現実的だとは思えない発想をする。

立法と言うのは、結局のところ実効力が欲しいのであって、立法それ自体に何の目的も意思もありようがない。
あまりに当たり前でこれ以上説明の仕様もないが、立法にあたって私たちが望むのは、実効力だ。

つまり立法に際し、私たちが一番検討しなければならないのは、それによってどのように効力を効かせることが出来るかどうか?にある。
平等性や手続きを問うのは、行政の段で、それはその後に考えるべき範疇になる。


さて、ではその『実効力』だが、ここでは度々主張してきている。
主に罰則規定というか、何かを促進するような法ではなく、何かを守る類の法を想定して話しを進める。

現状の構造では、それによって問題を減らすよりもむしろ、現状既に守っている人々をより拘束する効果の方が大きく、現状でそれを犯しているサイドは新たな仕組みを回避して引き続き実質を得ることが多い。

つまり、現状の発想構造のままでは、行政手続きが増え(つまり社会コストを増やし)、現状で既に守っている人を一層窮屈にする効果を生んでいる。
それではあまりにも無意味だ。

そもそも人は、状況や環境が変われば平気で一線を越える。
そしてそれは、法秩序が生み出しているものではないんだ。慣習や環境が生み出している。
なので、対策をするには該当者の慣習や環境を変えることが望ましいが、それはまったく別立ての検討事項であり、場合によっては政治が踏み入っていい範囲かどうかにも係ってくる。(社会保険料の問題で、健康促進を促す施策を想像するのがイメージしやすいか。)

法の実効力の一番の“行政力”は、各個人の人間性に依るところが大だ。
行政府そのものの効力は、それらに比べあまりにも小さい。
ところが、各個人の人間性は法規定の範囲外でなければならい。
ここを犯すこと=非人権国家。

そしてこの人間性というのが『道徳・慣習・倫理』に係ってくるものであり、つまりは“民度”だ。
これは私たち一人一人が大切にリレーしていかなければならないものだ。
『個人の自由』拡大を『個人の勝手自由』と履き違える今の日本は特に。
そもそも日本人が世界から称賛される部分とは、この“民度”くらいであろう。

では、法はどの範囲に存在するのか?
それは冒頭の人間性の部分に係っている。

人間は『自分(または自我)』『自分と自分の外との関係性』『肉体』という3つの構造物から形成されている。「我思うゆえに我あり。」ではない。自分が自分をどう思おうが、自分はこの世に存在している。自分以外から見た自分がこの世に存在することは認めざるを得ないことだ。
そして社会政治というものは、すべて『自分と自分の外との関係性』に収まる。

つまり、人と人とを結ぶ線(それは一方的でもよい)、この“線”の部分全てが範囲であり、逆に“線”の部分しか範囲ではない。

国家運営・法秩序というのは、各個体ではなく、それぞれを結ぶ線にしか存在しない。
そして私たちが問うべきは、その実効力にある。


また、理論というものは、適用するにも、対象それぞれに現在に至った経緯・歴史・それに関わる人々が存在するので、あくまでも空想でしかないし、道具でしかない。
同じ理論を適用しても、国家によってそれはまったく別のものとなって社会に着地する。
戦争を経験したことがない国家が言う「戦争反対!」と、経験したことがある国家の「戦争反対!」は、実質が異なる。それどころか、戦争に負けて「戦争反対!」となる国民もいれば、目茶目茶に勝ったからこそ「戦争反対!」という意見が巻き起こる国家・国民もあろう。
理論は同じでも、社会に関係するのはあくまでもその『着地した実態』にあり、その社会にはそれしか関係がない。

なので、空想や道具に社会を合わせるかのような発想法・適用法は主従が逆であろう。
私たちが生きているこの今現在というのは、“ある典型”などではなく、もっと漸進的なものと捉えなければならない。

また、このように深く潜らなくても『大方順調ならそれで構わない』程度の、とても当事者とは思えないような発想で社会政治に決着をつけてしまうケースも存在するが、それは改めて検討するに値しないこととして省略する。




結局のところここまでで検討している内容は、どのような事象の検討でもそれを抽象化させたり、特徴を標準化させたりして検討していく理論的なものと何ら変わりはない。
重要なのは、それによって得られた理論は、あくまでも適用された後の姿を想像することこそが検討内容であるという事だ。

私たちが真に検討しなければならないのは『どの理論を採用するのか』ではなく、『採用後の社会は今よりも望ましい社会に変化するかどうか』に懸かっているという主張をしているだけに過ぎない。



そして、もう1点構造を変えなければならない事項がある。
それは罪と罰について。

殺人でも○○法違反でも構わないのだが、日本では罪を犯した側の状況によってあたかも罪が変質する発想が横たわっている。
誰がどんな状況であろうと、人を1人殺したら、それは人を一人殺した罪で変わらない。
重要なのは、罰にある。この罰のほうこそが真剣に検討していかなければならない事項だ。

社会への影響でも、復帰後の効果でも、抑止力でも被害者感情でも構わないのだが、現状の1層構造では内容によって罪のほうが変質してしまう。
罪は罪だ。
人と人とを結ぶ線が法の範囲である以上、犯罪側がどのような状況であろうと(それは愉快犯であろうと、心神喪失だろうと、憎くて憎くてしょうがないだろうと)1人殺した罪は変わりようがない。
ここは2層構造で発想していかなければならない。

行政・司法が処理していくのは、罪の認定・確定。
私たちが真に検討していかなければならないのは、罰にある。

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法治国家というもの 

公務員の給与を2割下げろ!という話題が多くなってきている。
タイトルの内容は大よそ遠い話しなんだが.. 私的には、そこに繋がる話しだとして考えていきたい。


①法律に実効力を持たせるのは行政

どんなに素晴らしい法律を作っても、実際に執行する部隊が存在しなければ... 施行できない。
いかに厳しい刑法を作ったところで、取り締まる側がしっかりしていなければ、効果はないわけだ。

また、法制化されたところで.. とてもまともとは思えない法律の場合、日本の行政はサボタージュをする。また、厳密に適用するのが困難であったり、厳密に適用すると社会が混乱してしまうようなものも、自分らが妥当だと判断するラインで線引きをする。

そのような視点で考える場合、行政というもので重要なのは、末端の現場と、線引きを判断する上層部ということになる。


②行政側から一番望まれる環境

①のような状況は、そもそもの法律自体が真っ当であれば... 多くが回避される。
なので日本では、行政が立法をやってしまいたい気持ちでいっぱいだろう。
そして、妥当なライン(法律への解釈、施行可能範囲)で線引きをすること自体も、既に立法の一部と言えなくもない。


③不平をかわす。手続きを整える。

市民の側は、結構好き勝手なことを言ってくる。
そして人によってジャッジが変わったり、現場の判断に任せていたことで問題が上がってきたりすることに対処するために、責任を上に上げていく。
上に上げると言うことは、現場を見ていないので報告を整える必要が出てくる。

それらのことから、形式や書類を整えていくことになる。


④形式を整えることで違法を回避する。

形式を整え、書類を統一することで.. ほとんどの行政判断は適法になる。
なので行政の判断自体を判断する必要がない。
さらに、その方法で行政をしていく上で問題となってくる部分は、立法の方に盛り込むことが可能であり、つまりは司法の必要性を回避する。



⑤つまり、日本の三権分立とは.. 実際にはほとんど行政府が握っている。

中国共産党は、地方の首長と銀行の頭取と裁判官の人事権を行使できることで全国を掌握していると言われている。(もちろん、パワー自体も握っている。)
各個人の勝手を、宗教・道徳・慣習で制御することのできない中国では、そのようにパワーで統治する。

日本で「公務員の給与が高い!」という声が上がるのは.. 責任の付け回しではないし、理論的帰結でもない。
「私たちの税金で食っている。」「実際、いろいろ優遇されている。」 ・・そういう思いが背景に眠っているからこそ、話しに出る。
そして、前出の行政によるジャッジ.. これも、現実の発想・慣習・文化などを十分に背負った上で線引きが為されている。


⑥法律の実効力というのは、結局は私たちが納得できるものに発揮される。

利権や既得権益の奪い合いの世界のような法律はいくらでも存在する。
しかし、それらは奪い合いであって.. 長く続くものではない。奪われた側が常に反撃をする。

この視点に立って考えるとき.. 国民にとって必要なことは、奪う側-奪われる側のどっちに付くか?ではなく、争い自体から当該部分を奪還することにある。もしくはその争点自体を公的な立場から引きづり下ろすことにある。

そして、納得がいかないのに強要される法律は.. (行政府が手続き法を整えている限り)結局形式的なものになる。その際に必要なのは、正しい認識などではなく、書類を整える専門家であろう.. つまりその法律は真っ当ではない。
さらに、そのようなものに根拠を与えるために.. “法遵守”などという、とてもじゃないが真っ当とは言えない概念が流布される。


そもそも... それを国民に強要することで秩序を維持するのではなく、行政府が行政をすればいいだけのことなんだが...。



⑦法治の限界

法律Aを破る人は、破る理由を改善しない限り.. 法律がA+αにパワーアップしても破る。
そして法律Aをそもそも守っている人は、法律A+αになっても当然守る。
ところが.. +α分だけ手続きは増えている。

今まで一切違法云々など人生に関係ないというぐらい、適法状態だった人がいたとして.. その人の環境が変わることで、とたんに違法行為を選択したりする。それが指摘を受けて「とにかく違法行為はダメだ。」と悟ったとしても.. その環境を変えなきゃならないという意思(目的)が変わらない限り、その人はとにかく変えなきゃなんない。


今の現状に問題があるために、新しい法律を作る。
ところが現実の多くは、今まで破っていた人は手段を変えるだけで、今既に守っていた人は、引き続き守る。そして組織や手続きだけが増えていく。

この状態を脱するには、真に必要なところにだけ手が届けばいいというだけなんだ。


⑧単一民族的共通認識の効果を取り戻す方法でもよいのか?

それは無理だ。
道徳・慣習・倫理は、誰も教育から学んでなどいない。常に先輩世代の後ろ姿から学んできている。
大人の人格を強制するなど.. どだい無理な話しだ。
※但し、これらは法治という社会契約の外にある大切なものだ。あくまでも社会契約の外で、受け継いでいきたい。

そしてそれ以前に、グローバル化と“個人の自由”の拡大がある。
そしてそれはもう返上できない。






【まとめ】

行政費用の増大とは、何も公務員の給与にあるわけではない。
あくまでも、このメカニズム自体に問題があるんだ。

最上部の到達点としては、『必要なところにだけ手が届く』ことにある。
それを実現するボディに改造していくことこそが、真に必要なことだ。


その上でまずやらなければならないことは、真の三権分立であろう。
現在行政府が抱えている立法府的な役割を立法に移管し、司法的な役割を司法に移管する。それは部隊・人手・メカニズムごと移すのを想定して組み立てていけばいい。

私たちにとって、司法(訴訟)は遠すぎる存在だ。しかし、行政・立法への指摘をもっと近くに呼び寄せることは不可能ではない。そしてその窓口を弁護士だけに限定させなきゃいけない理由もない。

そして、現状の.. とてもまともな法律を作れないと思われている立法府も、行政からまともな声を反映しうるセクションを吸収することで、まともな立法府に生まれ変わることが可能だ。


現在の秩序は、引き続き国家が団結して世界経済に立ち向かっていく体制にあるし、生き残っている議論の対立軸も冷戦を引きずっている。
『法治の限界』の部分の発想に立つとき.. 当事者の環境もしくは性質を変えなければ、結局変わらないわけで、つまりは日本の法治メカニズムを変えなければ.. そっから産み出される治世はたかが知れているということになるわけだ。


行政の心臓というのは、優秀な官僚にあるわけがない。
現実の世の中で一番に効果を発揮しているのは... 
●大方の地域で行ける範囲に行政窓口があること
●消防署や立派な消防士がいること
●警察署や立派な警察官がいること
●まともな学校やまともな教師がいること
(通える範囲に病院があり、信頼できる医師がいること。と言いたいが、日本ではこれは民間だ。)

・・・にある。
※この発想は前出の①にも係っている。


つまり、現場の再興にある。
(つまりは結局これが今日時点での結論とも言えるんだが..)
そのようなことを担う層の給与は下げるべきではない。
現業以外のキャリアの給与を下げるべきだ。

そして現場の再興ということは、現場に多くの判断を任せることになる。
これは私たち市民も嫌う傾向があるが..
三権分立が確立した場合、行政の判断に不服ならば、その先にも道はあることになる。
行政がそれに抵抗するために手続主義に走ろうにも.. 立法府が取られているために実現できない。






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民主主義の正しい習慣 

先ほどの記事つながりで、民主主義の“あるべき姿勢”について語っていこう。
これは道徳というより.. 慣習。
まともな民主主義に参加してこなかった私たちが身につけておくべき正しい習慣だ。

①まずは、メディアほか話題にのぼった事項.. これらの事実(実情)を確認すること。
②そしてその背景ではなく、問題点自体を問うていくこと。
③その際に用いるモノサシは、絶対的なものではなく、相対的なもので測ること。
※やった場合-やらない場合、それがあった場合-なかった場合、今まで-現在との違い など..。

以上だ。


世の中で話題になる多くの事柄は、事実に過剰にデフォルメを効かせているものが多い。まずはそこをしっかりと考察・観察・検証しなければならない。

先日たまたま見たワイドショー的なものにて、コンテナ車の横転事故が増えていることが話題になっていた。
そして番組では、コンテナと車体をつなぐ部分が1点止めであることと、ドライバーがコンテナの中身や積んである状態を知ることができないのが主な原因だと挙げていた。

ここでまず私たちが知らなければならないことは、実際に増えているのか?(コンテナ輸送の割合も加味して)だ。
そして実際に増えているとして... ではその2点の主な問題点は今までと何か変わったのか?
“増えている原因”である以上、その部分が今までと変わったと捉えなければならない。
もしその2点が今までと変わっていないなら.. 少なくとも“増えた理由”にはならないことになる。
・・・とこのように。


そしてこのような姿勢が生み出す効果とは、対象事案にとってより良い.. だけではない。
現実は、その報道によって規制強化を画策している人がいるかもしれないし、新たなタイプのトラックへの買換え需要を狙っているのかもしれない。誰かが責任回避したいだけかもしれない。
そのような... 既にある目的を帯びている場合を阻止することができるんだ。

当事者が一番歯がゆい思いをしている話題などそっこら中に散らばっている。そこを無視するような対策は、心情面的に大変深刻な影響を及ぼす。


正しい方策は何か?を決め、そこを目指していくというようなやり方は、実際には正解と呼べるような真っ当な答えなどなくても、何かしら先に決めなければならない。(正しい科学的な姿勢とは、答えが解ける日が来るまで保留にしておくこと。)
そのような性質を帯びている以上、『正しい』かどうか怪しいものだ。答えを出さなきゃいけないから出しているようなものだろう。それどころか、ちょっとした正義感や不安感から論を出発(動機)させているのに答えが出てしまったりするから驚く。

もちろん、それで良い場合もある。きっといくらでもある。
しかし、私たちが民主主義の正しい習慣を身に着けるよう努力していかなければ.. ほっとんどの事項にその影響を及ぼしてしまうんだ。


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カレル・ヴァン・ウォルフレン 

今日は2チャンネルニュース絡みから素晴らしい記事を発見した。
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン(中央公論)---Yahho!みんなの政治

そういえば昔私も、『人間を幸福にしない日本というシステム』を買った記憶がある。但し、読んでない。
あいかわらずウォルフレンさんは官僚統制機構批判を続けているようだ。
ただ.. ウィキペディアで見ると森卓さんやベンジャミン・フルフォードなんかと共著があり、それだけで記事への信頼を落としかねないのが気がかりだ。


55政党の妄想(私はただのサラリーマンで、普通にオープンになってる情報以外一切知らない。)にも似た官僚統制機構批判も、これを読むとほっとんど納得できる。

この記事について一部食い違うなと思うのは、
①官僚は利権構造ではない。あくまでも記事にある山形有朋のように.. 自分たちが正しいことを確信している。
②罪は罪で間違いない。政治家や急成長ベンチャーの多くは、目的のために時間をショートカットして結果を早く引き寄せる人々なので、法にふれている。だから正義側ではない。多くの人は法に触れている。その多くの中から恣意的にチョイスしているんだ。つまりそもそも正義側も悪側も存在していない。なので片方を過剰に担ぐ姿勢が気になる。


とはいえ、スキャンダルや政治と金の問題など政治家と国民との繋がりに関係がない様子は示されているし、政治家は国民の味方の側であることがよく表れている。
そのようなことまでワイドショーのネタのように扱い、実際はロクに考えていないような方々の目に少しでも届くことを願うばかりだ。
※但し、これでは“自身が正しいことを確信している”官僚さん達と同じ姿勢でしかない。例えどうしようもないと思える人たちだって同じ国民であり、重要なことは、そんな私たち自身が話し合って決めていくということと、恣意的な情報操作の威力をなくすことにある。










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昨日紹介した『選択』の日銀総裁話しにでてきた内容なんだが・・
日銀総裁は代々東大の法学部が務める場所であり、経済学部の白川さんが就いたのがそもそもの間違いというのがあった。もちろんこれは真剣な議論とは違う。但し、飲んでる席で出てきそうなこんな話題... あながち冗談とは言えない。
半分本気だろう。

今から主張する内容は日本の民主主義についてで、この話題から何を言いたいのかというと・・
それは、官僚さん達は誰に何を言われようと自分たちが一番正しいと確信しているということ。

日本で一番勉強ができる方々は、日本で一番知識を詰め込んでいる。
経験や体験から学ばなくとも、彼らはそれを知識でカバー出来る術があることを確信している。


経団連は政治と金の問題を真に受けて対応しているが・・ 本来政治と金の問題など大したことではない。
問題なのは、官僚秩序が壊れないことにあり、この話題は国民が踊らされていると捉えるのがニュートラルであろう。

また、政治か?官僚か?というタッチの議論も見受けられるが・・ 政治とはそれを語る私たち国民に懸っていることであり、政治批判とは国民批判と等しい。「政治に問題がある!」=「私たち国民に問題がある!」ということなんだ。

政治の足を国民が引っ張っていては... それは自ら自分の首を絞めているということであり、この国の基本はあくまでも国民VS官僚と捉えるべきであろう。
“VS”となる理由は、官僚さん達は自分らの描く国家が一番正しいと確信している部分にある。
正しい国家像を先に描くこと自体がこれからの日本の民主主義を歪めているのであり、つまり“VS”になる。

そもそも私たち一般大衆は、国家のことなど大して考えていない。それが現実だ。それを考えている風な方々はそれを職業としているからであり、人生のエッセンス程度に過ぎない。国家を真に憂い、国家のことを考えているのは間違いなく官僚さん達であるが.. それこそが官僚さん達の仕事であるからに過ぎない。

現在、社会保障以外のほとんどの事項は、国家をまたいで影響し合っている。
そして自由市民の活動の歴史が長くなっていくにつれ、多くの細かい分野にまで専門家が生まれている。
そして国家のことなど大して考えていないハズの私たちも、民主主義の経験と知識を深めてきている。
“正しい国家像”を描く時点で大きな勘違いなんだ。
小学校じゃああるまいし・・ 皆で○○していこう!と言って、ホントにそれをするか?
そして世界は、リスクを分散しているハズがリスクを拡げ... 地域で団結して強い通貨を作るハズが、そのうちの一部に問題があるだけで結局全体が危険なことになっている。
世界のユーシューな方々が雁首をそろえてやっていることがそれでは.. あまりにも情けない。


国家を束ねる者は、調整およびジャッジが主たる役割ということになろう。
縦割り行政や一律平等主義っぽい行政スタイルは、誰に何を言われようと分かっていてやっていると捉えなければならず、今現在の仕組みをなかなか変えることが出来ない素晴らしいメカニズムとして機能させている。
それに対しての私たち一般大衆は、見事に乗せられているんだ。
例えば、私たちは日常行政において、担当官によってジャッジが変わったり・・ 不平等に感じることを嫌う。それに対して末端にジャッジをさせず、書類ばっかり増やしていては.. 行政府と書類の専門家を増やすばかりなのはおろか、そもそも上層部判断など私たちに何のメリットももたらしていない。正しいジャッジを望むだけの者が、結局はその制度を意図的に活用しようとする人々にメリットを運んでいるようなものだ。
末端にジャッジをさせ、セカンドオピニオンでも調停の場でも設ければそれで済むことなんだ。

ここを突破するために何よりまず必要なことは、
①マスメディアの解放
②議論を尽くす姿勢を身につけること
にある。

この2点を突破しない限り、日本は何をやっても官僚支配から脱出することはできないであろう。


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