7年経ちました

55政党というブログからの

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小室さん論では、正しい民主主義のためには日本国民は“契約”を理解し、そして政治家は約束を守らなければならない。
つまりこれはそのまんまマニュフェスト政治に繋がる。

私が深刻に感じるのは、何故その形にしなきゃなんないか?だ。
それぞれの問題にはそれぞれにベストな方法がある。
んだから、方法論を問うのは一番に重要なことではない。
第一、それは正しい民主主義のために必要なことであり、そもそも正しい民主主義でなきゃいけないかどうかは問われていない。

小室さん論では、政治に係る部分としてアイデンティティと天皇の話しが出てきた。
アイデンティティとは本来存在証明(ID)ではない。
つまり私から言わせれば、それはわざわざ重視して取り上げている姿勢だと捉えるわけだ。
日本らしさがそれほど重要だと言うのに、何故正しい形態を重視しなければならないのだろうか...?

あれだけ議会での討論こそ命だと言っている。では、討論を経ないで何故重要なものを誰かが先に決めていいのだろうか....?


日本らしさとは、手段を重視する姿勢・・・ つまりフェアプレイにある。
反則をして勝負に勝つぐらいならば、正々堂々と戦って負ける方を選ぶのがジャパニーズスタイルだ。
そして、どんな立派な目的のためだろうと、正しい手段を用いることを優先しなければならないのは自由主義の要だ。

つまり、対象如何に関わらず手段が先に決まる姿勢には問題があるということだ。


話しは憲法原論に戻るが、憲法が死んでいるのは神である天皇が象徴になり下がっていることに起因する。ところが、それ以前に天皇は神ではない。それは政治的作戦(方法)でしかないんだ。
さらに言うと、憲法とは実質慣習法だ。
そこまで込みで考えているというのならば、政治は国民の慣習まで作り上げようとしていることになってしまう。
カルヴァンの予定説にチカラが与えられたのは、堕落したカトリックにある。しかし、カルヴァンの意見はキリスト教の価値をしっかり見なおしただけに過ぎない。
日本には神はいないんだ。何なら今から多くの人が麻原彰晃を崇めたてるようになれば、そこから神は始まる。しかし、それを政治が意図しては・・ 大きな誤りなわけだ。
ここには方向がある。無理矢理流行らせようとする人がいることは何ら問題ない。重要なのは、その形態が必要だからと、政治がそれを主導することにある。

そしてこの意見とは、そのまんま手段を問う話しになっているわけであり、さらに言うとそれが日本スタイルであろう。
そんな私は、アイデンティティとは“日本人としての拠り所”ではないことを知っている。アイデンティティとは自分から見た自分と他人から見た自分を漠然と一致させている(人格の統合)だけに過ぎない。超自我とは、自分が他人の存在を思うゆえに自らを律する(見張る)存在であり・・ そういう意味では、自我と超自我が同じ人格の元にひとつになることをアイデンティティと呼んでもいいだろう。

この部分から、わざわざ客観的日本人らしさなどを導き出すことに価値などない。
世界標準の民主主義や資本主義を問うのに、日本人らしさなど関係がないわけだ。


最後に、議論を重ねることで共通理解が深まることを重視するのも・・ 手段の形を先に決めていると言える。しかしここで大事なのは、それも政治的にそう動かそうという意見ではないことがポイントだ。
その手段が大事だからと、その手段を政治が作り出そうとすることが問題となるわけだ。
そしてこのようにいち大衆が声を上げて主張したり、煽ったりするのは一向に構わないわけだ。
さらに、慣習法であることを重視するということは、私たちが進んで従おうとする姿勢が重要なのであり、私たちが好むスタイルで全然OKだという話しにも繋がる。
それを無理やり作り出そうとすることが、果たしてそれを重視していると言えるのか大いに疑問だろう。




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