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55政党というブログからの

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食べられません! 

今日はコンビニでトルティーヤ的なものを買って食べた。
手で持つ部分が厚紙で囲ってあり、食べやすいんだが・・ その包まれているゾーン(あと二口三口くらい)にきたところで・・ 何か紙のようなものを噛んだ。「あら?折り曲げたハズなんだが・・」と思って見たら、防腐剤の袋だった。
「食べられません!」と書いてある。

そこでふと思ったのが・・
これを誤って食べてしまう人がもしいるとして、そんな人または場面で、「食べられません!」と書いてあれば回避できたケースなんてあるか?ということ。

あり得ない。
食べられません!という字を読んでなおかつそれを口にする人は、どうにかなってしまいたい人か、その言葉を理解できない人だ。それ以外の場合は、誤って口にするケースしかなく・・ その場合は“食べられません”と書いてあろうとなかろうと関係がない。
そして、言葉の意味が理解できない人にはそれを理解できる人がそばに付いていることが多いが・・ 大凡その人は、それが食べられると書いてあるのか食べられないと書いてあるのかを見て判断するわけがない。


....至って当たり前の話しをしているんだが、ここで言いたいのは、社会における考察の多くとは、大変論理的だったり演繹的だったり素晴らしいアイデアであるよりもまず、それをやった場合とやらない場合の差で判断しなければならないということ。

やってもやらなくても同じことを法制化しているようじゃあ、どうしようもない。
そのような法律とは、①それを法制化すること自体が既にある目的を持っている場合 ②法を利用して金で穴埋めしてもらいたい場合 ③それによって責任を回避したい場合 にしか役に立たず・・ 即ち私たち善良な一般大衆にとって何の理もないものだ。


ユーシューな方々はよく、このような間違いを犯している。たいそうハイレベルなことを言っていても、それをやった場合とやらない場合の差がないことや現実的にはやれないことを述べていることなどザラだ。

また、法を活用することが得意な方々、今既に多くのモノを持っていて法律に守られたいことばかりな人々も、このようなタイプの法律を歓迎する。
実際のところ法律とは、ろくに何も所有していない私たち一般大衆にとっても、基本的には既得権益や身の安全(大きな意味で既得権益)を守ってもらうために存在している。結局私たちはそれを活用することをしないけども..。
失うものなど何もなく(と思い込んでいる)未来が長すぎて今に絶望している若者にとって、そのような類の法律に何一つ理などない。



また、当たり前すぎるものの多くに、法律は存在しない。
ところが、“当たり前”というのはどれだけ閉じた空間に長く暮らしているか?と直結していて、本質的には普遍でもなんでもない。この辺は慣習法と紙一重ではあるが... ここで主張したいのは、これからもっと“当たり前”が減っていくのは間違いなく、そして屁理屈と経済力に任せて制度の穴を突くような姿勢も増えていく。
その時に『やった場合とやらない場合の差』という発想の仕方を身につけておかないと、より一層くだらない社会になってしまうだろうということだ。




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