7年経ちました

55政党というブログからの

全て終了した。
小室さん論はきっと、小泉-安倍陣営的コンセンサスに違いないと感じた。

ロック→アダム・スミスの自由放任→その上にニューディールがある。
ジョン・メイナード・ケインズの偉大さもよく分かった。
だからこそ古典派が自由主義なんだろう。

ケインズの話しほかいろいろ取り上げて行きたいが・・
まず何よりも優先したいのは本筋だ。

資本主義には、カルヴァンの予定説的『神の存在』と、『労働が素晴らしい』ということ... この2つがどうしてもなきゃいけなかったということであり、日本で伊藤博文陣営が推し進めたのは、『神としての天皇』と勤労の象徴である『二宮金次郎(尊徳)』だったというわけだ。
この本の大半を占めた章は、この2点を理解するためだったと言ってもいい。

戦後日本国憲法は、その大切なアイテムである『神である天皇』を取りあげてしまったようだ。
このことによる深刻は大きく、心の支えたる権威の喪失が現代社会のモラル低下を招いている。

そしてもうひとつ、民主主義の命とは議会での討論にあり、これが機能していたのは田中角栄という大人物を最後に影を潜め、今の官僚天国に繋がっている。

言ってみれば、この2つをこの本の結論と言ってもいい。
そこを少し丁寧に掘り下げていきたいのだが、その前に言いたい事がある。

●官僚とは使いこなすものである
●自分の居場所を見失うことをアイデンティティの喪失と言う(天皇が私達の居場所)
●国民の命を守れなければ国家がある意味が無い。つまり自衛できなきゃ国家じゃない
●基本的に経済活動にはあまり国家は介入すべきじゃない

・・・これらは小室さん論と言ってもいいのだが、これこそが自民を支持してきた多くの方々にとって同意できる内容なんじゃないかと推測する。
そして、なるほどそれでアイデンティティの解釈が心理学ではなく存在証明ばかり取り上げられてしまうんだと分かったし、天皇礼賛の意味が分かった。

但し、小室さん論含め大きく無視している重要な視点がある。
それは、資本主義には神の元の平等と勤労マインドが必要だから・・ という理由で天皇を祭り上げたことにある。
それを為政者が決めることが真の深刻だ。
カルヴァンの予定説は、キリスト教を厳密に解釈しなおしただけであり、その神は政治的に祭り上げられたものではない。政治とは関係なく存在しているものだ。

そしてこの様に歴史を正しく把握することによって今を知る方法にも大変意味があることは良く分かった。がしかし、元からして同意できる事項の多くは、私は勉強から学んできてはいない。今を直視することでも同じような答えに辿りつく事はできる。(ここはこだわらなければならない。)

つまりは、小室さん論は為政者が見る政治だ。
私の意見はそういう意味では大衆から見た政治だと言っていい。
この本では大変に重要なことを成した大人物... カルヴァン・ロック・ディズレーリ・ナポレオン・ヒトラー・伊藤博文・田中角栄と、時の為政者が事を成したことを捕えている。
残念ながら民主主義とは、大人物が作戦を練って世を決めることではない。
どうするのか... は、私たちが話し合って決めるべき・・ それだけのことだ。



では今日の細部に行こう。
まずはケインズだ。
まず、当時主流だったのは古典派経済学と呼ばれ、つまりは自由放任主義のことなんだが、そんな世にあってたった一人で批判の声を上げたのがケインズだったそうだ。
そして、しばしば誤解されるようだが、ケインズは決して自由放任を丸ごと否定したわけではなく、「正しいこともあればそうでないこともある」と主張したんだそうだ。
世界恐慌の当時としては、ケインズの主張の多くは真っ当だと考えられるし、その有効性を認め、政策に反映させたのが、フランクリン・デラノ・ルーズベルトのニューディール政策だ。
また、ケインズは「有効需要拡大政策を長く続けると、その有効性は失われる」とも言っていたらしい。現代に照らし合わせると、金利が低過ぎてもダメらしい。つまり、ケインズの理論が悪いんではなく、それを使おうとする側に問題があるということだ。

次に天皇。
これは既に述べているように、日本を近代国家(世界の一流国にまともに認めてもらえる国家)になるためには、民主主義とその先にある資本主義が必要であり、そのためには天皇にキリストの代わりになっていただかないといけない... という経緯で祭り上げられた存在だ。
但し、江戸時代から既に天皇教と呼べるような.. 天皇を大変に崇めたてる人々はいたようで、徳川慶喜ほか尊王派と呼ばれる多くはその時点で既に天皇をそのように崇めたてる存在と見ていた下地はあったようだ。
しかし、江戸の幕府制&身分制がいきなり、天皇は神、民衆は皆平等と意識改革ができるわけはなく・・ 岩倉使節団メンバーが意図的にそのような世界を作り出している。
そしてそんな明治天皇から昭和天皇まで、天皇が強権を振るった歴史など実際にはなかったようだ。
日本を神の国だと信じる民衆、特権を自ら捨てる武士、そのようなチカラもあのような歴史に大いに関係ていたことが良く分かった。

そしてこのあたりから官僚批判が始まっていくのだが、その前に尾崎咢堂だけ取り上げておきたい。日本にデモクラシーは実際にあったのか?について、小室さんはこの尾崎咢堂で説明している。
当時強大な勢いを持っていた桂内閣に対し、議会で堂々と弾劾演説をやってのけたのが尾崎咢堂さんなんだそうで、つまり権力を握っている相手にも議会での討論が行え、そして何の弾圧もなかったそうで、実際に有効だったことから確かに日本にも民主主義はあったという話しがでている。私はこのお名前を知らない。もしかしたら多くの人は知ってるのかもしれないんで、メモ変わりに残しておきたかった。

そして官僚批判は猛烈だ。
官僚とは行政執行官でしかないのに、立法・行政・司法をすべて握っているとまで言っている。
立法は納得するだろう... 司法まではどうか?いや、私の日頃の主張でも「微妙なジャッジも行政が行っている」としているが、欧米では微妙なジャッジは既に司法が判断するらしい。んだからつまり、おおくの微妙なジャッジを規則・見解・命令・原則などと・・ 行政府が多くのジャッジをしている時点でそれは司法も行っているということになるそうだ。
自分らで立法し、そして適用し、そして判定しているんじゃあ... 確かに、官僚に握られた国家だ。
ただ、そのような官僚支配も予算を付けなければとたんに抑え込めること、そして予算の承認は国会が行うこと、つまり本当は国会でそれを制限できるハズのものだという意見が出ている。
財務省の権力は偉大であり、そして本当はそれを国会は制御できるはずなんだそうだ。
そして国会での議論こそが民主主義の要であるのにそれを自ら放棄し、そして田中角栄のロッキード事件のようなとんでもない疑獄事件も民衆やメディアが自ら作り出しているものだとしている。
小室さん曰く、田中角栄の裁判はとんでもない「身の毛もよだつ暗黒裁判」だと言っている。

田中角栄については、議員立法のレコードホルダーだという話も出ている。角栄こそが官僚を使いこなした政治家であったそうだ。
演説が重要であり、そのことには特に何度も触れている。
サッチャーも討論こそが重要だと言っているし、言論こそ議会の砦だとも言っている。
そしてそれこそが現代への答えだと言ってもいい。

私はここで学んだことのほっとんどを知らない(覚えていない)。しかし、皆で話し合うことこそが重要だ(何が正しいとか、そういう発想も否定している)としている。
つまり、今を直視することでも同じ答えは見いだせる。
そしてさらに、歴史が証明しているから・・ と言って、今に適用するかどうかは全くの別問題だ。しかし、現実の直視は、まさに現実の解剖であり、今にしか適用できない。


本の最後を締めくくる部分に、“本当の民主主義”という言葉が出てくる。
私の意見は、「本当の民主主義がいいのかどうかすら別問題」だ。
大事なのは、それは私たちが考えることである。


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