7年経ちました

55政党というブログからの

今日の昼間はココイチでカレーを食べたんだが、ここには大概新聞が置いてある。
その中で読売をチラっと読んでいたんだが・・・
その中にこの「なぜ人を殺してはいけないのか」という話題があったんで、ふと思いついた。

今から主張することは、それ自体ではなく、思考法について。


「なぜ人を殺しちゃいけないの?」



これ自体はアメブロ時代にも回答している。
答えはこうだ。
「なぜ殺しちゃいけないか?は分からなくても、殺していい理由も見つからないならば、それは認められない。」

ところが近頃の大人は、その問い自体に真剣に答えを見つけようとしてしまう。
まあだからと言って、昔の大人がそれに答えられたのではない。
昔だったら、「ダメなものはダメ。」だ。それでこそ素晴らしい。

この話しは、論理的思考手順として、帰納法と演繹法の違いににている。
つまり、今不足しているのは帰納的思考法だという話しだ。

「何が正しいか・・・」を追い求めるのは、必ず正解がある場合でなければそもそも話しが合わない。
「正しいとは言えないものを排除していく」方法でも、結局同じように求める姿を目指すことは可能だ。そしてこれであれば、正解があるのかどうか分からないものに対してとても有効だ。



それとこの問いについてもうひとつ大事なテーマが眠っている。
「なぜ人を殺しちゃいけないの?」に対し、「それじゃあお前は今、誰かを殺したいと思っているのか?」と返す場合についてだ。

この場面において、殺したいと思う“気持ち”を猛烈に批判する姿勢がある。
しかし、社会(人を殺す話しである以上、それは自分の外の世界の話しだ)との関わりである以上、重要なのは、“実際に殺さないこと”であって、どう思っていようが関係がないことなんだ。
殺したいと思う気持ちを潰しに向かえば、それはもっと歪むだけなのは明白だ。

この話しももちろん、殺す-殺さないに関わらず、近頃に見受けられる発想だ。
“悪い感情”を制御しようとするのは間違いだ。
そもそも良い-悪いなど自我の世界とは関係がない。それは全て自分の外との関係に関係することだ。
それは認知がどうだろうと、言語がどうだろうと関係ない。
A君とB君が共通認識があろうと、それを片方は友達と呼び、片方は知人と認識していようが・・ A君とB君に何らかの関わりがあったことは事実であり、世界が認知できる範囲だろうとなんだろうと譲れないものだ。

マンガ『ソムリエ』に泥棒に対するサービスを問う話しがある。
主人公のジョーは、見習いの水谷に「泥棒だと分かっていて普通にサービスをしたんですか!?」と言われ、それに対しジョーは「じゃあお前は、相手の身分などによってサービスの質を変えるのか?」と逆に質問している。

レストランのサービスマンにとって、お客様は皆お客様だ。そこを結ぶ線は変われない。
(もちろんこれは、お客様によってサービスの仕方を変える話しとは全く違う。主人公のジョーは、たとえ同じメニューで同じワイン、同じように夫婦でのディナーであっても、2組に対するサービスの提供方法は異なるケースがほとんどなハズだ。)


おおよそ人間の活動のほとんどは、自己以外との関係が占めている。
ということは、それぞれ個々の内にある世界よりも、それぞれを結ぶ線を重視しないでいい理由はない。


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