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55政党というブログからの

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『超自我』から見る社会 

先日の『誰かを悪人に仕立て上げることで自身が善人気分にひたれる』にて、久々に自我や超自我について触れたが・・ その中の
■■□
世界はそれぞれが自分を中心に考えるしかないとして・・ それでも、自分から見た世界と、世界から見た自分が存在する。
自我とは、ここで言う“自分から見た世界”の世界であり、超自我とは結局のところ“世界から見た自分”のことだ。時と場合によって、ここで言う“世界”というのは認識を変える。
学校にて考える場合は、ククラスメイトとして・・ だったり、生徒として・・ だったり。
街中で考える場合は、若者として・・ だったり、地域の住民として・・ だったり。
つまり、世界から見た自分を意識することで、それは他律が発生することになる。そんな自らを律するチカラを通常は超自我と呼び、それは結局そういうことだ。
そんな超自我を自我の中に取り込んで統合させることを自己同一性(アイデンティティの確立)と呼び、多くの状況下において、自分から見た世界と世界から見た自分を同時に認識することを可能にする。
□■■
について、自分で書いていながら、引き続き気になっている。
現代の日本において、超自我を考えることはきっと役に立つ。

ウィキペディアでは、超自我とは
■■超自我(独: Über-Ich)
超自我は上の二つ(エス・自我)の層をまたいだ機能で、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制を自我に伝える機能を持つ。この機能がエスや自我を強く押し付けているとき、自我がエスの要求を通すことができずに防衛機制を働かせることがある。超自我は前頭葉のはたらきと関係があるとされ、現在でもそれは妥当と考えられる。

・・・・と、出ている。
それ以外の人の意見に目立つのも、道徳やルール・規制方面だ。

しかし55政党の妄想する範囲では、むしろこのウィキペの“前頭葉のはたらきと関係がある”を重視している。

前頭葉の働きを端的に表現している記事がある。
超自我 ---心という海さん

『前頭葉は次々に生起する事柄を記憶の中で組織化したり,与えられた環境で適切なプログラミングをし,それに基づいて組織的な反応をしたり,文脈(条件)によって適切な反応にスイッチしたり,不必要な反応を抑制したり,将来を予測,期待するというような種々の知的能力に関係することが示されています。』という部分ほか、前頭葉はザックリと経験や体験や記憶に関連しているようだ。


私のこの考察は、心理学の勉強ではない。あくまでも社会考察だ。
その線をあくまでも逸れないで考察を続ける。


意思や感情とは、自我にない。意思や感情を言葉に表し、自己に認識させている部分からが自我の仕事だ。意思や感情の源泉はエスまたはエスと自我の間にあると考えて間違いないだろう。
自我とは、エスからの命令を処理するために働いている。
私たちが考える日々の思考には、意思はないんだ。
そしてこの2行から分かることは、自我は本来自身に制御機能を持っていない。命令を終了するまで働き続けるに違いない。

そしてその命令の根本は基本的に本能を満たすことであろう。生命の維持やリレーだ。
そしてそれには自己以外が関わってくる。
自己以外との調整--それは自我のエンドレスな回転の制御にも関係していくる--を図っているのが、経験や知識という記憶によって積み上げられた超自我の存在であろう。

経験や知識を自身の今ある状況に照らし合わせるには、自己や自己以外を客観的に捉えることが必要になってくる。そして経験に根拠はないが、知識には根拠がある。ところが、根拠と言う時点でそれは自我の仕事になっている。
・・・いや、知識を根拠に自らの行動(選択)を判断するという場合、知識にも根拠は無い。それを採用する理由に根拠などない。

「戦争は多くの人を不幸にした。だから戦争をしてはいけない。」
・・・いや、それは今戦争をしてはいけない根拠とはなっていないし、不幸とはなにか?を確定させなければならない。そしてそもそも、何故多くの人を不幸にしてはいけないのかも説明されない。

知識を経験・体験の疑似体験と捉えられるかどうかは専門家にでも聞かなきゃ分からないが・・ ここで重要なのは、根拠があるのかないのか?だ。
つまり、知識にだって実は根拠は無い。

この辺を考えることで、ようやく“自我が出した答えを制御する超自我”と納得がいく。
と同時に、現代はこの自我と超自我の境界、根拠というもの、つまりその結び目が何か深刻なものを抱えていると感じさせる。


果たして知識とは、経験・体験からの関連付けを行うことなしに、ホントに制御するチカラを持っているのだろうか....。

人は、常に考えて・・ そして自分の行動や選択を意識して、動いているのではない。エスや本能の要求をすぐに解決できないからこそ考える。それを考える必要もないほど反復して身に付けた経験則は、もう考えなくなる(必要がなくなる。)

知識と経験は、記憶の違う部位に保管されていると考えるのが自然だ。
そして結局のところ超自我は、それを適用することを仕事としていると捉えるべきだろう。
そして重要なのが、知識による適用は結局思考(つまり自我)の域を出ない・・・ということだ。

そしてさらに、成功体験や失敗体験のように・・ 経験則は自覚している以上に自身の行動に影響を与えている。
知識は、自覚できるし変化する。
記憶は変化するだろうが・・ 蓄積されているハズの経験自体は本当は変化しない。それは認知レベルで変化しているだけだ。
ということはやはり、知識と経験は別のところに保管されているか、活用のされ方が違うということになる。


超自我と呼ばれる自我の制御機能が、アイデンティティと関係していることは間違いない。そしてそんな自我の制御機能の形成が、現代の大きな問題と関わっているのも間違いないだろう。
そして恐らく、思考する上で引っ張り出してくる先も記憶だし、超自我が判断する経験等を引っ張り出してくる先も記憶であるからこそ、そこに大きな問題が潜んでいる。

思考する上で引っ張り出してくる記憶は、それは既に自我領域での仕事だ。
55政党の主張でいけば、ここがアイデンティティの確立を疑う多くの優秀な方々の発想に通じる。
存在自体を問う(律する)ために用いられる客観視的な視点で活用されるものが、自我領域に入り込まない規律であろうと考えるわけだ。
であるからこそ、内側から見た自分と外側から見た自分の統合が自動で行えることをアイデンティティの確立と規定している。
そして、知識や論理でない経験(体験)の不足こそ、その道を別ける手がかりとなっているに違いない。


知識や思考の発達した現代人が困難に陥っているのはアイデンティティの確立なのではなく、超自我の形成にあるのではないだろうか....。
そしてそんな知識や思考の発達した方々に見られる別の特徴として、エスからの命令までも自我に取り込んでしまっていると感じられることがある。




・・・これはあくまでも、社会を考える上での題材であって、心理学の勉強ではない。
まあ要は、自分も考えながら書いているだけで、そのような妄想がいつか進歩する土台となるだろう。



【追って追加】
55政党では、これまでに“存在自体をカガクしなければ”などと言ってきている。
存在自体というものは、認知は出来るが、理論も根拠もない。
そして本能やエスの要求の根拠も意思も.... 誰も知ることが出来ない。
だがしかし、それは確かに在ることを知っている。
理性が展開する理論や根拠などの思考の世界は、自分が収まっているその箱自体を知ることが出来ない。
超自我やアイデンティティは、そこに係っているんだろう。

そしてそれは、相手を認めること・許すこと、失敗や葛藤と成長のこと、成功体験やパワー信奉のことなど... 55政党でこだわっている多くのことに関係している。


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