7年経ちました

55政党というブログからの

目的、方向、存在、価値 

55政党では、機会や時間、成長と葛藤、目的と手段、価値や意義などをよく考える。
自分の以前の記事を読み返していて... あしかがの藤棚の記事なんか、自分で書いていて泣けてくる。

たとえばそのように、素晴らしい価値があったとして・・
「価値があるからそれをすべき」とか「意義があるから目指すべき」 ....かどうかは、まったく別の話しだ。

今日はそんな話しなんだけど...
例えば企業は、「素晴らしい事業だからそれをすべき」なのではない。事業を興すのも、「それが大変有意義な事業だからする。」のではない。事業というのは、生きるために作物を作ったり動物を狩ったりすることと大して変わらないもので... 根拠や価値観など関係なく、必要なことだ。それらはつまり本来別の目的を持っている。
価値や意義は、それらの行いに後から付いてくるものであり、先に目指すべきものではない。
そしてその価値も、周囲の人々や時代・環境が決めていることであり、気まぐれやタイミングの問題かもしれない。それらがその事業を支持する理由にこそなれ、それがないといけないわけでもなんでもないものだ。

価値とは基本的に後から付いてくるものであるにも拘らず、それを先に決めて目指していく“逆走な”発想が、現代を歪めている原因のひとつだと感じる。
55政党では、消費行動(選択全般を指す)というものを大変に重要視している。ここをまず、自身の判断で決めなければならないわけだ。それらを保護しようとするタイプの動きに強く反対するのも、そんなことがあるからだろう。
安全・安心まで社会システムが用意してくれる現代は... 私に言わせれば進歩ではなく、後退だ。
進歩している部分とは、ひとりひとりが皆ひとり分を生きていい(存在していい)社会を実現したことだろう。

そうは言っても、ここ全般的に言えることは・・ 結局各自の勝手であり、ここで述べている主張は正解なわけでもなければ、強制されるべきものでもない。
逆に言うと、「そうありたい」と願う思いは、法やシステムで決めるべきものじゃない.... ということになる。
言ってみれば、『市場原理主義』ではなく、『消費原理主義』みたいなものか...。

私たち個々に任されている多くの判断が望むからこそ、その部分は繁栄・拡大していく。それが“望ましくないものだ”として・・・ 実は自分達が好んで選択しているからからこそ、それは栄えているわけで、口で何を言ったところでそこは回避できない。(「好んでいるわけではなく、そうせざるを得ないだけ」だとしても、それはつまり違う何かを優先しているということを回避できない。)
価値観を先に論じ、そして先に確定させることとは、自分らの実態とかけ離れていくばかりだ。


では、どうすればいいんだ...。
いや、この主張は「間違っているものを却下すべき」と言っているんであり、どうすればいいのかなんて私の知ったこっちゃないわけだ。「自分で決めろ」だ。

そんな中に在って、55政党が随分前からお勧めしている指標を再び載せよう。
社会 - 自分 →[マイナス?プラス?]  
世界 - 自分 →[マイナス?プラス?]
これは何も“自分”じゃなくてもいい。会社でもいいし、親としてでもいい。とにかく存在が入る。
要は、「いないよりはいたほうがいい存在(に違いない。)」と確信できるかどうか.... という話し。

自分もしくはその存在が、社会や世界にとってどんだけの価値があるのかは分からなくても、ほんの僅かでもいないよりいたほうがいいだろうと思えれば、つまり社会や世界に存在する価値があるわけだ。だって、ないよりはあったほうがいいんだから...。

これなら、先に価値観を決める必要がない。
存在ベースでの何の根拠もない判断だからだけど。
そしてこれこそが、私にとっての道徳だ。だから当然、人に強要できるものではない。

価値を先に決め、それを目指す場合・・・ その過程とはつまり、残念ながら当人だけにとって大事なことになる。過程はその人が信じる価値観を目指す(実践する)行程でしかないから。
その間にその人に関わってしまった人は、お互いの関係性自体や過ごした時間を共有出来ない可能性が高い。このような場合、時間が存在しているのは関わってしまった方の人にしかない。目的進行中の人には、ただ単に生命が老化していく時間が流れているだけであり、“過ごす時間”とは種類が違う。
正しいと信じるものを目指す過程がどれだけ当人だけのためのものであるかが示されただろうか...。まあそれでも、それを(そんな現状)を動かしうるのも関わってしまった人に懸かっているけど。


自己実現のため... そんなくだらないことのために、社会政治を動かす人がいる。ところが、動かされて不利益を被っているハズの我々愚民にとっては、どうなろうと結局頑張っていくだろう。(どんな世になってもそれなりに生きていくのは間違いない。)
支配者がそれを家畜のように見たところで、当の本人はそれを構わない(意識しない)のなら、何の問題もない。その環境に見合った幸せを見つけていくことだろう。
その姿を見た息子なりが「そんなでいいのかよ!」と言ったところで、結局それは“みっともない”とか... そんな程度の低い話しだ。

重要なのは、そんなみっともない存在であっても、世の中にいないよりはいたほうがいい存在であれば・・・ いたほうがいいんだ。
世界を支配する王は、いるよりいないほうがいい存在であれば、王はこの世にいない方がいい存在となる。だからと言って消すことは不可能だ。だけど.... それであなた(王)はいいわけなの?って話しだ。(三国志なんかでは、後世にどう語られるか... を大変に重視している。この部分は権力者が見る道徳と呼べるのかもしれない。長い歴史を学び、その中に在る自分を見つめることによって見出す道徳だ。だがしかし... そのために記録を改ざんする支配者も多かったようだけど。)

ここで正義感や価値観が前面に押し出される時.... 目的のために手段を選ばない人々が現れる。その手段のために誰かが犠牲になるとして... それはホントに価値のあるものなんだろうか?
55政党では、目的のためにも手段を選ぶことを“善”としている。
つまり、良い目的のために行動することは、善でも悪でもない。関係がない。


ここでいう善とか悪とか... それに消費(選択)する上でも、事前に価値観は存在する。
そんなショートサイクルでの矛盾に納得いかない人もいるだろう... 自分でも行き当たりばったりで進んだのでぶれているが、結局ここで言ってることは・・・ ①価値は後から付いてくるもので、価値観は先にあるもの ②人間の存在は価値観の目指すものと違う法則で動いている(価値観とは自我であり、存在は自我の外にある) つまり③価値は人が決め、価値観は自分が決める ということだ。


結論的には、どんなに素晴らしい価値観であろうと、それは自分だけにとって重要なことだということになる。


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