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55政党というブログからの

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先日電車でAUの広告に出ていた。
AU尾崎

ちょっとたまには“愛ってやつ”について考えてみよう。

「愛が欲しい」「愛に飢える」「相手がいない」........
それは違うよ。
愛とは、愛というものを当人が持っているかどうか・・ にしか係っていない。
つまり、相手がどうとかは関係がない。

包帯クラブ』 『エミリーローズ』 『ペイ・フォワード
---いずれも55政党(アメブロ)

「恋愛の愛は博愛の愛とは違う」とよく言う。
恋愛の愛とは、そもそも自己愛のことであり、自分に喜びを与えてくれる対象だからこそ、自分が犠牲にしてきたものがある・・ その裏返しが恋愛で言う愛であり、つまり何という自己愛なんでしょう!という話しになる。
が、それで当人が巡り合わせに素晴らしさを感じたり、人生が輝くというのなら、何ら批判することなどない。

こっから偏見でくくるが・・
特に女性の場合、自分に喜びを与えてくれる相手を欲するにしても、本来自分はお姫様であるから... 自己を曲げたり、ちょっとでも予定を合わせたりするだけでも、それは大層な自己犠牲であり、その積み重ねが逆に愛を強くする。
その犠牲が清算されずに終わってしまおうものなら・・ それはつまりそのまま姿を恨みに変えることなど想像に難くない。

このように毒舌を吐く私は、実は男は女のシモベだと思っている。
逆に言うと、「I LOVE YOU」と思っているからそれを発するんではなく、相手が言って欲しがっているからそれを言うということだ。



「全面的に味方する」... その部分で恋愛の愛と博愛の愛は共通してはいないだろうか・・・。
ある意味で共通していると言える。
「全面的に味方」であるからこそ、時には厳しい仕打ちをすることも許されるというかそういうことがある。
ところが私の場合、そもそも敵も味方もない。
それだとどうだ?

自分がこのように堂々と存在してていい... その源泉はどこからくるのか?
逆に言うと「存在を許される」ことが大変に重要なことではないだろうか...。

仮面を被った自分だけが存在を許されるのならば、それは本当の自分は存在を許されてはいないということだ。

「許す-許される」という関係...
それは理詰めの関係には存在しない。
理に適っていないものは、存在を許されないからだ。

そしてそれは、双方向通信も内包している。
これは皆、そのような関係性を構築できるかどうか・・ に係っている。
関係性のカタチ(パターン)を自己の中に確立できるかどうかに懸かっている。
コミュニケーション至上主義の私は、そのようなことを考えていると言っていい。

では、そのような性質(というかこれは習性だ)を得ることが出来なかった人はどうすればいいか・・・ それはどのタイミングだって修正不可能ではない(難しいのは間違いないが)。失敗から学んでいけばいいことだ。
それが出来ないということは、別に直したくもないか... もしくは自身のコントロールの出来なさ加減に問題があるということで、直したい部分を注視するよりまず、そっちを直せばいいだろう。


ということは、「善-悪」の奴隷であっても、「敵-味方」の奴隷から解放されれば・・ それは結局望ましい世界であるだろう。






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