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55政党というブログからの

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昨日ここで取り上げた記事..
404 not foundさんも取り上げているようだ。はてブランキングにいた。
被害者は私だというすべての人たちへ

小飼さんの意見は、あくまでも規制すべきかどうかに係っており、コメントのように基本的には対象となる記事には触れられていないも同然だ。

そして昨日の思案の続きと、この404の記事を読んでて、再度主張したい。(同じようなことは何度か出してる。)


暴力を行使したいと思うことと.. 実際に暴力をふることは違う。
それをイコールだとするのは、「私は、私は」な世界であって当人自身にしか関係がない。

社会でこれを論じるとき、あくまでも自己と社会の繋がりは『実際に行使したかどうか』だ。
「いや、そう思ってる人はきっとやるに違いない!」
・・・気持ちは分かるが、コミュニケーションとは自己と人の関係性の取り方の鍛練でもあり、日常生活の中で関係性のカタチを自己の中に着地させる(居場所を作っていく)作業だ。
つまり、『思うこと』と『行使すること』の間に、人間としてのカガク(成長)が存在している。

第一、思ってしまったことを直すことは出来ない。(親→子なら不可能ではないが.. それはそれでノーマルともいえない。)「思ってるに違いないから規制しよう!」というのは、世界がまだ自己の中に存在していることを表しているんだ。世界は自己の外にある。むしろ自己は世界の中にあるんだ。(改めて言ってみれば.. 猛烈に当たり前のことだよ。)
もちろん、危険性が高い場合を除く。それはそれで社会政治のカガク(成長)のちからだ。


殺したいと思うことがある人が殺人者なら、世界の半分は人殺し。
死にたいと思うこと自体が自殺なら、世界の半分は死んでいる。
ヤリたいと思う時点でアウトなら、男のほとんどは強姦だ。

それらが現実はそうなっていないという.. この見事なコミュニケーションのコントロール実績は、もっと価値を持っていいハズなんだ。(自殺は一見コミュニケーションではない。しかし、人間とは“生きている”のではなく“生かされて”いる。誰も自分の意思で生まれてこれたヤツなんていないし、生きてこれてはいない。つまり、“生かされている”以上はコミュニケーションの問題。)
それこそが人類の進化であろう。
※それでも不安で仕様がない人もいるだろう.. だけどそれは私からしてみると、不安を欲しているようにも見える。なぜなら多くの場合、それを解決する手段が、そう難しくない範囲で存在している。執着の問題。


子供を失敗や危険から遠ざけることは、このように深刻な副作用を伴っている。
暴力が日常茶飯事だった時代は、きっとどの程度で相手が屈服するか?もしくはどれくらい必要か?が分かり、それを量った上で行使されていたであろう。だからやっても変化が期待できないであろうアブノーマル気味な相手はほおっておくハズだ。

そういう意味で行けば、今の時代はもしかしたら文脈やその間に存在する空気で多くを感じ取れるようになってきているのかもしれない。
しかし、自己と他人を区別すること、自制の仕方を体得すること、危険を察知すること、上手くいかないことから立ち直る術... これら基礎的能力を身につけておくことは、どんな世になろうと必要なことであろう。


世界とは、何か手立てを施しても、実際にはそれはこの世からなくならないものだ。形を変えるか.. 場所が移ったかだけにほかならない。CO2問題と似たようなものだ。
人間が実際に戦っている相手とは、実は今目の前に見えている対象ではなく、時間と戦っている。
ところが、時間は人間にはコントロールできない。そもそも勝てる見込みがない相手と戦っているんだ。
そうであっても、結果を欲してやまないことは、つまり欲の一種でしかないが.. 例えば、CO2を科学の力で違う物質(それも、より今必要とされているもの)に変化させることが出来れば、それはいくらか良いと思うべきだろう。



じいちゃんが近所のコンビニに行ってなかなか戻ってこない。
じいちゃんは相当足腰が弱ってきており、確かに傍で見ていると歩くのもスムーズではない。しかし強がりなところがあり、やせ我慢なところがある。なので付いていくことも出来ないし、心配されることを嫌がる。
家で待ってる孫は、「遅い、まだ帰ってこないの?」などとイライラしている。
しまいには、こちらに対し「心配じゃないの?」などと言ってくる。

そんなに心配なら、自分がコンビニに用事でも作ればいい。
実際にギャアギャア言うだけなら、何も行動を起こさず何とも思ってなさそうな風の私と何も変わらない。

社会生活とは(自己と他とは)、実際に取った行動で判断しなければならない。
そして、実際に取っている行動(この場合、心配に思うこと)が結果に影響を与えないのならば、自己以外にとって何一つ変わらない。

これは血縁者の話しで実際はもっと複雑だが・・ 社会政治であれば、この深さで十分であろう。

※例え話補足
娘が自分に様子をうかがって来て欲しいと言っていると捉える事ができるが.. それならば、「心配している⇔していない」といった類の批判は間違いになる。
だがしかし、そこまで含めて娘が私を動かそうとする作戦である可能性も高い。
ところがところが、じいちゃんも私も男であり、お互いをよく知っている。ここはどれだけ心配だろうと本人はほおっていてもらいたいものだ。そしてそれでも失敗があるとき、自分で答えを出すだろう。何なら私には答えを暗に受け取ることもできる。
もしその失敗が取り返しのつかないものであったとしても、じいちゃんはそれを望んでいる。こちらも正直悔いは残るが、後悔はしない。その人と私が大事にするものが尊厳や誇りであるならば、それを優先することが本望だ。
そのことで悲しむ人もいるだろう.. しかし、それは最後だけ許される素敵なワガママだ。






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