7年経ちました

55政党というブログからの

存在を『認める』『許す』『尊重する』 

先日は、『個人主義』というものを考えていくべき!という話しを出した。
そしてそれが、正しい民主主義の習慣(姿勢)と関係している。
また、答えを先に決める手続きについても度々指摘してきている。

そっから今日は、やや私の妄想になるのだが・・
そのような事柄の多くはきっと、人を認める.尊重する.許す ことに係っている。そしてそれは自己以外とは限らない。自分を許す.認める.尊重 することも関係している。

誰の意見が正しいかどうか...
そこで私たちにとって重要なことは、その意見の内容だ。“誰”かどうかが重要なのは、本人でしかない。
さらに、その人の意見が100%当人だけのモノだと言えるわけがない。それぞれがそれぞれに周囲でも本でも何でも.. から吸収したり経験したりして、その論を形成するに至っている。そしてそれはいくらでも変化していくものだ。

つまり本来は、主張主自身にとっても、より良い答えを導くことが望ましいと意識してはいるハズなんだ。
そしてその主張が論破されると相手の主張を認めるんだろうか..
いや、その前に大事なことがある。議論のほとんどは、条件の限定や意思・思いが前提・出発点になっている。
「前提が100%“真”であるのあらば」「皆がそう望んでいることに変わりがないなら」という仮定が常に潜んでいる。
そして議論を重ねれば重ねるほどに明らかになること... それは議論の内容ウンヌンではなく、その仮定・前提が人によって異なるということなんだ。
つまり「あなたの前提、意思、仮定に立って考えれば、それは“真”だろう」というのが大方の場合の正しい答えになる。

誰かを救いたいために主張している人、自身の名を上げるために主張している人、飼い主から送り込まれている人、そのような方向に導かなきゃいけないと確信している人... それら各自が背負っているものを否定することなんてできない。そんなことは、人それぞれ勝手だとするしかないんだ。

つまり、自身が自身の主張に確信しているとして... 他者が他者なりに確信しているということも、(自分と同じように)認めてあげなきゃならない。※これは先日の夏目漱石『私の個人主義』項と重複している。

そしてそれを“認める”ということは、相手の背景の存在を“許す”ことであり、つまりは相手を尊重するということになる。
この姿勢を身につけておかないと.. 議論もクソもないということだ。
でなければ... この話しのスタート地点に戻ってしまう。
そう、“誰”であるかが大事なのは当人自身だけ。
つまり、相手を認める姿勢を身につけておかなければ・・ 自分だけの世界になってしまうということなんだ。

アメリカ人の多くは、法治が浸透し、そしてリスクから過剰に自身を守る意識が高いように感じられるが.. しかし、自己を認めるとともに、他人もまた同じように認めるという... 大人として当たり前の姿勢を身につけている。
そんな部分こそが、『個人主義』に係っている。


『認める』『許す』『尊重する』の及ぼす影響はそれだけに留まらない。
自と他の関わりつまり全てのコミュニケーションに影響している。
私の妄想では、人を認めることができない + 過剰な正義感 = ステキな世界の住人さん(勘違い野郎)となる。
そしてそれは、『自分の中に世界がある』のか『世界の中に自分がある』のかの違いが大きく関係している。
別にどっちが望ましいのかは知ったこっちゃないが・・ 周囲を見渡せば、『世界の中に自分がある』のが“真”とするよりないだろうよ。一生引きこもって外部との関わりを完全に絶って生きていくことがホントに可能ならば、『自分の中に世界がある』のも“真”と言える。しかしそれは、不可能だ。
世界の中に在る自分を、認めてあげるよりないんだ。
であれば.. 自分が成さなきゃならないことが出てくる。そして同じように、他人にも成さなきゃいけないことがあることを知ることとなる。

中学生くらいの子が、万引き常習犯だとしよう。そして「これはいけないことなんだよ。これを作る人・売る人その他いろんな人が~なんちゃら」と言ったところで、その子は親がどうしようもなく、そして兄弟を食わせていかなきゃならないかもしれない。それは間違いなく正当化されるべき行いだ。
だから社会が出来ることは、そのような境遇の子を社会が保障する枠組み(秩序)に組み入れてあげることとなる。
・・・これは分かりやすい例だが、大凡容認できそうもないことであっても、それなりの理由や背景・意思が存在している。だからまずは、相手を認めてあげる姿勢がなければ何も解決しない。そうでなければ、自己満足の勘違い野郎でしかないんだ。

そして“相手を認める”ということの意味が難しい人は少なくないだろう。
それには、自分(もしくは現実でもいい)を認める・許す・尊重することを理解することから始めなければならない。
究極のところ、親や大人の役割とは、そのことを自身で身に付けていけるボディ(脳含む)に育て上げていくことであるだろう。そして日々日常の習慣や文化・コミュニケーションというものが、自然とそのような成長を促進していたり、妨げていたりするのものだ。だから、一朝一夕でそれが実現できるわけがない。しかし、そのこと(概念・発想)の存在を知り、そして重要性を理解することから、始めることができる。


最後に、政治(民主主義)の話しに戻る。
『立場も性別も民族も超えて仲良く利益を分け合っていきたい』陣営も、『弱い立場(労働者)の意思を背負って、その人らに利益を配っていきたい』陣営も、『世界は奪い合いであり、自国が団結してそれに挑まなくてはならない』陣営も... それはそれでしょうがないだろう。
重要なのは、国会の場(立法の場)というのは、そんな人らの奪い合いの場ではないということ。そんなそれぞれに背景を背負っている人らが、お互い納得ができるように話しあう場である前提で制度設計されているんだ。

そして度々だが、ハイエク等自由主義的主張とは、多くが納得し、進んで従うようなルールでなければ実効力を持たないことを説いている。

奪い合いなら奪い合いで、まあしょうがないんだが・・ であれば、それは『龍馬伝』を見誤っているということになろう。




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