7年経ちました

55政党というブログからの

道徳教育 

ニッポン大好き陣営の多くに、「道徳教育の強化」を主張する人たちがいる。
私の場合、道徳の重要さを理解したのは、F.A.ハイエクを読んだからだ。
道徳や慣習こそが、自由主義の心臓と言っていい。(少なくとも日本では。)

そのように私は、道徳を軽視していない。
しかし、教育とはあくまでも、その存在を知ることが効果の限界だ。
そして道徳は、社会に実践されていることだけに価値がある。
その概念自体は大事ではないんだ。

では子供たちが道徳を身につけるにはどうすればいいのか...。
それは①それを強要する人がいること ②それを破ることで親が責任を負うこと ③それが実践されている存在を見ること だろう。

もし昔の道徳教育に効果があったんだとすれば、それは教育自体が強要されていたからんだろう。
ただし、実際に効果を及ぼしているのは、それを守る大人の存在と、それを厳格に規律しまた、それを自身がしないことで親が大変に残念がる、困る、責任を負う環境にあったことにある。

理詰めや根拠を優先する躾では、道徳教育になど効果があるわけがない。何一つメリットも合理性も見つけられないからだ。
そのように私は、根拠がないこと、強要すること、理に叶っていないことを重視する。


例えば安倍さんなんかを支持する方々の意見、それらの多くには同意できる部分がある。何よりもまず、自分が自分である必要があることが前提となっている部分だ。ここを回避していかなる人生論も不毛だろう。
そして私もこのように道徳を重視する。そして武士道など・・ それが私にとっての宗教だと言ってもいい。(宗教は、善悪の判断を決めている。武士道や道徳はルールではない。自らを律するのみ。だからこれは、法律以外に自身を律するものという意味に於いて。)

ところが、そこから先がとたんに分かれ道となる。
道徳や武士道に関係しているのは、まぎれもなく社会に存在する自分であり、つまり社会との関係性の話だ。ところが、コミュニケーション自体への理解と言うか配慮が足りていない。
そして、答えが出ない決着を採用しないことにある。

道徳や慣習とは、必ず守るものではない。自らを律するのみだ。
つまり「それを大事にしていこうよ!」と呼びかけるくらいしか強制力がないわけで・・ 答えが出ないものを採用しているということだ。ところが、道徳の大切さを説くとすると・・ 答えを求める。(その絶対価値を確定させる。)
社会に在る私事を、社会に強要するのは間違いだ。


まあ、つまり何が言いたいかと言うと・・・
日本ではコミュニケーションの科学が不足しているということ。
自らを律する姿勢は、正しいものを求める習性を身につけてしまい易いが、コミュニケーションには何が正しい、どちらが正しい、片方だけに問題があるということは基本的にあり得ない。

そしてこれこそがアイデンティティ(自我同一性)と関係している。
ニッポン大好き陣営の少なくない方々には、アイデンティティの正しい理解が不足している意見が見受けられる。
自分で自分を律するということを重視するということは、他人がその当人自身で自ら律することを重視するということだ。
それがアイデンティティだ。


これでようやっと主張したいことは見えてきただろうか...
●道徳は、その価値を強要するのではなく、自分が大事にし、そして実践することこそが価値。
●日本にはコミュニケーションの科学が不足している。


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