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55政党というブログからの

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政治の基本的な部分について 

この話しは、政治学云々よりも、もっと基本的な部分の話し。
理想主義的発想、価値観偏向、学術重視といった部分で、どうしても理解し合えない(つまり話し合う事が出来ない)層との対話を試みる上で、再度立ち返って考えていきたい。



【構造を変える必要がある】

現代人が抱える問題の多くは、人間及び社会というのは『自分(または自我)』『自分と自分の外との関係性』『肉体』という3つの構造物から形成されているにも関わらず、『自分と自分の外との関係性』の部分が欠落していることが原因であることが多い。

また秩序においても、国民⇔国政(水準を落としても同じ)の単層構造から発生する世界観が目立つ。
社会秩序というのは、『国民』『国政』『道徳・慣習・倫理』の3つの要素で検討すべきであり、2層構造になっているものだとしなければならない。
つまり、社会の問題を解決するにあたり『より良いアイデア→即政治』とはならないということだ。


そもそも、理想郷を思い描きがちな方々の多くは、発想の根底に性悪説・基本的不信を抱えているにも関わらず『法運用=人々が必ず従う前提』といったような、大よそ現実的だとは思えない発想をする。

立法と言うのは、結局のところ実効力が欲しいのであって、立法それ自体に何の目的も意思もありようがない。
あまりに当たり前でこれ以上説明の仕様もないが、立法にあたって私たちが望むのは、実効力だ。

つまり立法に際し、私たちが一番検討しなければならないのは、それによってどのように効力を効かせることが出来るかどうか?にある。
平等性や手続きを問うのは、行政の段で、それはその後に考えるべき範疇になる。


さて、ではその『実効力』だが、ここでは度々主張してきている。
主に罰則規定というか、何かを促進するような法ではなく、何かを守る類の法を想定して話しを進める。

現状の構造では、それによって問題を減らすよりもむしろ、現状既に守っている人々をより拘束する効果の方が大きく、現状でそれを犯しているサイドは新たな仕組みを回避して引き続き実質を得ることが多い。

つまり、現状の発想構造のままでは、行政手続きが増え(つまり社会コストを増やし)、現状で既に守っている人を一層窮屈にする効果を生んでいる。
それではあまりにも無意味だ。

そもそも人は、状況や環境が変われば平気で一線を越える。
そしてそれは、法秩序が生み出しているものではないんだ。慣習や環境が生み出している。
なので、対策をするには該当者の慣習や環境を変えることが望ましいが、それはまったく別立ての検討事項であり、場合によっては政治が踏み入っていい範囲かどうかにも係ってくる。(社会保険料の問題で、健康促進を促す施策を想像するのがイメージしやすいか。)

法の実効力の一番の“行政力”は、各個人の人間性に依るところが大だ。
行政府そのものの効力は、それらに比べあまりにも小さい。
ところが、各個人の人間性は法規定の範囲外でなければならい。
ここを犯すこと=非人権国家。

そしてこの人間性というのが『道徳・慣習・倫理』に係ってくるものであり、つまりは“民度”だ。
これは私たち一人一人が大切にリレーしていかなければならないものだ。
『個人の自由』拡大を『個人の勝手自由』と履き違える今の日本は特に。
そもそも日本人が世界から称賛される部分とは、この“民度”くらいであろう。

では、法はどの範囲に存在するのか?
それは冒頭の人間性の部分に係っている。

人間は『自分(または自我)』『自分と自分の外との関係性』『肉体』という3つの構造物から形成されている。「我思うゆえに我あり。」ではない。自分が自分をどう思おうが、自分はこの世に存在している。自分以外から見た自分がこの世に存在することは認めざるを得ないことだ。
そして社会政治というものは、すべて『自分と自分の外との関係性』に収まる。

つまり、人と人とを結ぶ線(それは一方的でもよい)、この“線”の部分全てが範囲であり、逆に“線”の部分しか範囲ではない。

国家運営・法秩序というのは、各個体ではなく、それぞれを結ぶ線にしか存在しない。
そして私たちが問うべきは、その実効力にある。


また、理論というものは、適用するにも、対象それぞれに現在に至った経緯・歴史・それに関わる人々が存在するので、あくまでも空想でしかないし、道具でしかない。
同じ理論を適用しても、国家によってそれはまったく別のものとなって社会に着地する。
戦争を経験したことがない国家が言う「戦争反対!」と、経験したことがある国家の「戦争反対!」は、実質が異なる。それどころか、戦争に負けて「戦争反対!」となる国民もいれば、目茶目茶に勝ったからこそ「戦争反対!」という意見が巻き起こる国家・国民もあろう。
理論は同じでも、社会に関係するのはあくまでもその『着地した実態』にあり、その社会にはそれしか関係がない。

なので、空想や道具に社会を合わせるかのような発想法・適用法は主従が逆であろう。
私たちが生きているこの今現在というのは、“ある典型”などではなく、もっと漸進的なものと捉えなければならない。

また、このように深く潜らなくても『大方順調ならそれで構わない』程度の、とても当事者とは思えないような発想で社会政治に決着をつけてしまうケースも存在するが、それは改めて検討するに値しないこととして省略する。




結局のところここまでで検討している内容は、どのような事象の検討でもそれを抽象化させたり、特徴を標準化させたりして検討していく理論的なものと何ら変わりはない。
重要なのは、それによって得られた理論は、あくまでも適用された後の姿を想像することこそが検討内容であるという事だ。

私たちが真に検討しなければならないのは『どの理論を採用するのか』ではなく、『採用後の社会は今よりも望ましい社会に変化するかどうか』に懸かっているという主張をしているだけに過ぎない。



そして、もう1点構造を変えなければならない事項がある。
それは罪と罰について。

殺人でも○○法違反でも構わないのだが、日本では罪を犯した側の状況によってあたかも罪が変質する発想が横たわっている。
誰がどんな状況であろうと、人を1人殺したら、それは人を一人殺した罪で変わらない。
重要なのは、罰にある。この罰のほうこそが真剣に検討していかなければならない事項だ。

社会への影響でも、復帰後の効果でも、抑止力でも被害者感情でも構わないのだが、現状の1層構造では内容によって罪のほうが変質してしまう。
罪は罪だ。
人と人とを結ぶ線が法の範囲である以上、犯罪側がどのような状況であろうと(それは愉快犯であろうと、心神喪失だろうと、憎くて憎くてしょうがないだろうと)1人殺した罪は変わりようがない。
ここは2層構造で発想していかなければならない。

行政・司法が処理していくのは、罪の認定・確定。
私たちが真に検討していかなければならないのは、罰にある。

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