7年経ちました

55政党というブログからの

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こどもの人権宣言---55政党版 

こどもに人権などない ---55政党

近頃の教育方面のニュースは完全にイカレている。
そこで、55政党では度々主張している内容を再度取り上げてみた。


こどもは自身の手で当該政府へ法律に則った働きかけを行えるようになって初めて人権が付与される。(=選挙権を得て初めて与えられる。)それまでの間は、親と社会の所有物であり、人格のみが与えられている。
こども自身は、生まれるタイミングも場所も親も... 当然経済力も何も選べない。そして大人たちは、そのようなものが子供の人生に影響を与えることを知っている。だがしかし、その環境が望ましくないと思われたとしても、それが子供にとって一概に不幸であるかどうかは微妙なところだ。例えば、経済的に裕福な家庭に育ったこどものほうがアブノーマルに育つ確率が高い事を私たちは薄々気づいている。
その内容がどうであれ皆それぞれに差があるわけで、その“差”を認めなければ、それぞれが当人である必要がない。「いっそ名前など付けないで番号制にしよう」と言っているのと大して変わらないという話しだ。
そして、法律でわざわざこどもを保護するということは、私たちは法律がなきゃ子供を守らない大人たちだということになる。それでは動物園で生まれ育って、子育て放棄をしてしまった動物と変わらない。
恐らく、こどもの人権を強く主張するような方々は、知識が発達しすぎて生き物であることが分からなくなってしまっているのだろう。

人間は、それぞれがどう思おうが・・ 生まれてくれば肛門を意識するようにできているし、口を意識するようにできている。肌の表層が保護されているべきところには毛が生える。しかも生殖器などは、その役目を果たせるようになるにつれて毛が生えてくる。
成長していくものであるということを認めないわけには行かないし、どの程度の成長を以って一人前と判断するかどうかは当該政府の取り決めに懸かっている。
つまり、それまでの過程及び環境とは、成長するためのものであり、そこへの政治的介入はどれだけ深刻な影響を及ぼす可能性を秘めているのか計り知れない。
私はエリック・エリクソンを重視している。肉体と精神と社会性はそれぞれが関係し合いながら成長しており、55政党では特に、精神的な成長は葛藤のあとに自動的に訪れる現象であるとしている。それはつまり、葛藤を回避することもまた深刻に捉えているという話しになる。

もし仮に、そのようなこどもの人権を強く主張している内容が論理的に優れているとしても・・・ 私の主張は今までの方法から何か変えるものではないが、そのような方々の主張は、今までの方法から何かを変えようとしていることであり、つまりその行動が及ぼす影響を全面的に引き受けるということになる。


現実を見ろ。こどもの意思や希望に任せるか?
それこそ自らアブノーマルを推奨しているということじゃないか。


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弁護士会副会長までイケないお薬 

職業はあくまでも、職務を全うすることであり、プライベートと職責は別けるべき・・・ と発想してみようにも、さすがにこれはダメだろう。
札幌弁護士会副会長、覚せい使用容疑も捜査 尿に反応 ---Asahi.com


つい先日取り上げた人事方面の話しが頭をよぎる。
問題は先約束主義にあるんだ ---55政党

■■□
人事というのは、下が腐っていようと何だろうと・・ 結局は上からの引っ張り力が大事なんであり、つまりは人事に問題があると思われる組織は常に、上層部自体に問題があると考えなければならない。
年功序列が問題なんではなく、望ましくない人が上層部に居続けること自体が問題だ。
□■■
 ・・・の部分だ。
そうはいっても、社会に出来ることはメディア発信してもらうことよりほかなく... このような表沙汰になるような性質のものではない場合は、いよいよ難しい。

何かいい案でも浮かべば... と思うのだが、私には難しい。
そうはいっても、ふさわしい人間が上層部に就く組織であることは、当該組織にとってもそれと関わる社会にとっても素晴らしいことであることには変わらない。


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体罰について 

はてなブックマークで盛り上がっている話題に、躾についてのものがある。
『躾』の恐怖 ---オオツカダッシュさん

それに対する意見やブックマークコメントをざっとみたところ・・ 記事の対象になっている親に問題があるのが当たり前かのような意見が多いようだ。それは記事の対象になっている夫婦を以前から注目しているような気配があり、それまでの過程などを見れば“それで普通”な可能性はあるが・・・
該当記事を読む限りにおいては、この夫婦の言っていることにそれほど問題は無い。
それに対し、この夫婦が虐待をしていると決めつけた意見が多いが・・ それが表れているのは痣のみ。確かに“痣が出来るほど”というのはかなりのものだが部位は指定されていない。
記事中でこの親をモンスターだと決めつけている人たちと同様・・ この記事でこの親が虐待をしていると決めつけて意見している人たちもかなり思い込みが激しいと感じる人も多いのではないだろうか。

というか、記事中に出てくる教育者側の思想.... これは完全に狂っているとしか思えない。

■■□
実は私は、真剣に教員を目指していたことがあり、大学は教育学部を出ています。(結局採用試験は落ちて主婦やってますが・・^^;)
教育学部で習う「教育方法」というのは、まずは「子どもの人権尊重」「子どもの個性尊重」です。
具体的には「褒めて伸ばせ」「体罰禁止」等です。
子どもに対して「叱る」などの苦痛はなるべく与えずして、ありのままの子どもを受け入れ伸ばす、という姿勢が良いとされています。
だから授業なども、昔のように椅子に座り黒板を見ながら、「勉学に励む自分を鍛える場」では無くなり、飽くまでも子どもが「楽しい」と感じることを重視する、「参加型授業」が良いとされています。要するに、全て「子どもがどう感じるか」に重点がおかれており、「子ども中心」なのです。
だから先生は「友達」のように親しめる人が良いとされ、私の大学ではこともあろうに、教師が子どもに自分を「先生」と呼ばせることは「思い上がりだ」などという議論が、大学の教授によって賞賛されるような有様でした。
□■■
・・・という記載がある。
これは教師を目指すものが皆通る道なのだろうか....?
だとしたら、とんでもない洗脳教育であり、これこそ恐怖を覚える。


両親に対して“怖い”という意見は、洗脳された教師たちがこぞって書き込んでいるのではないのか?と疑いたくなる。

躾、特に体罰について、このように猛烈に批判される傾向が強くなってからむしろ、アブノーマルが増えていると感じる感覚は間違いないハズだ。
どんなに立派な理屈があろうと、どれだけ評価されている教授が力説しようと・・・ それは事実(のハズ)だ。

屁理屈の頭でっかちで自分を見失っているのは、むしろそのように理論武装している人たちだろう。
小さな子供は理屈も言語も理解しない。条件反射で覚えるようなものだ。
親が体罰を用いる場合に問題となるのは“度合い”であって・・ それが過剰だと思われる場合には動物の親だってそれを“異常”と判断される。
体罰が暴力と認定されるかどうかは、度合いの問題なんだ。

そしてここからこそが本題であり、55政党が主張し続けている内容なんだが・・・
体罰というのは、「とにかくダメ」「ダメなものはダメ」という親の想いを子供に届ける行為であって、当人が納得づくでの体罰など存在しない。(その部分では、この親は間違ってる。)
体罰というのは、理屈じゃないものがこの世に存在することを伝えるとても大切な行為のひとつだ。
もちろん、「ダメなものはダメ」が子供に伝えられるのなら暴力でなくて構わない。がしかし、屁理屈で歪むぐらいなら暴力のほうがマシだ。そして繰り返すが、それは度合いが重要だ。

この記事のみを読む限り、まず深刻なのは、子供にそれを虐待だと教える教師であろう。
万が一どう見ても虐待だと疑われるのであるば・・ 教師は子供主導ではなく、とにかく親に向けて意思表示していかなければならない。
何より残酷なことは、子供が親を認めなくなることにある。
この教師は、たかだか学校の先生の分際で、その子から親の存在を抹殺してしまった可能性が高い。大変に悲しい行為だ。
この親がそのような不信感を子供に持たれる余地があったとすれば、それはやはり理詰めであった部分ではないだろうかと妄想する。


このような発想を危惧して自民党が右曲がりにこだわっていたのだとすれば、それは確かに深刻だ。
日教組だけではなく、民主党自体も多くがこのような発想を持っているのなら・・ それは大変に危険なことだ。
確かに、原口さんなんかは過度に暴力を否定する。
それはもしかしたら、「暴力で解決するから戦争はなくならない」とかとても深淵な発想に基づいてのことかもしれない。
しかし、ノーマルという曖昧で一部危険含みなザックリとした目安を否定することで、アブノーマルをたくさん生みだしていては、戦争云々どころではない。(アブノーマルになってからでは、何をどう間違えようと・・ もう救えないんだよ。(多くの場合。))
第一、経済が優先されることで戦争は明らかに減ってきている。
もしその部分でこのような発想にこだわっているのであれば、むしろパワー信奉についてカガクしたほうがよいだろう。
私は理屈は知らないが、パワー信奉は簡単に直せるように妄想する。
(例えば、その方法を一度でも失敗すれば治る・・ というケースが確かにある。)


ダメなものはダメなんだよ。
理屈じゃないんだ。理屈というのは、多くの場合“言い訳”と置き換えても遜色ないものなんだ。



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現状維持を望む 

またまた池田信夫さんの記事から。
長期的関係の呪い

池田さんの記事には、たまにこのような幸福論優先の主張が出てくる。そして大変に重要なことだ。
それは55政党でもかなり前から重視してきている。
ただ... 自由主義陣営の多くは、長期雇用を問題点の中心に扱う傾向が強いのが気になる。
長期信頼や自律ルールによる秩序社会は、本来日本が世界から絶賛された側面を含んでいるし・・ 合理的(つまり経済的)ではないものに機会や予算が与えられ続けたり、個人がコツコツと積み上げ続けられたからこそ成し得た素晴らしい数々の事象が存在する。


自殺率の特徴について、長期的関係よりもまず私が注目したい視点(論点)は、現状維持やディフェンス姿勢にある。
もちろん、長期的関係がそれを産み落とすのかもしれない。がしかし、長期的関係が生み出すメリットも大きいわけなので・・ その手前で対処できないか?が重要なんだと思うわけだ。

これは相変わらず、帰納的路線.... 具体的な事例の現実を、ただただ観察してから考える方法だ。
新興国家の現状を見てきた人の意見でも分かるように・・ 過去の日本もまた、皆で何かを目指していた。
それに対して今の日本は、とにかく“現状維持”であり、“ディフェンシヴ”な発想ばかりが蔓延している。本来“未来しかない”ハズの若者までが、守られ、そして自身で切り開いていくという意識が低く、「社会政治のせい」などと分かったような口をきいて、人のせいにしている。(若者に向けているが、若者自身のせいではない。これは現状観察だ。)

これらの発想法は、まさに左寄りなんだが・・ つまりは、左寄りが率先して連れてきた世なんだが・・ 驚くことに、そんな当人らは自分達がそんな世を連れてきている自覚が全くない。
震源地が自覚がないんじゃあ・・ 直しようもないんだが、それでもここはそんな視点から何か考えて行かなきゃならない。



未来は先にない。自分で切り開いていくしかないんだが・・ そのような説教じみたとこを言っても始まらない。
現代は、●道から逸れないこと ●失敗や間違いを起こさないこと を重視した社会秩序が進められている。それはつまり、子供たちに失敗する機会を奪っているので、当然自分で突破するチカラも養えようもない。
だからといって、世の中が制約だらけで何をしようにも難しい面はあるんだろうが・・ それでも切り開くための選択肢は狭められてはいないんだと感じる。
だがしかし、私は日頃から主張しているように・・ それを切り開く必要がない人がわざわざ突破するようにする制度設計は間違っている。

ここはまず、社会政治の介入の範囲を狭めることが重要だ。(今日もやはり、新たな制度を設ける発想ではなく、新たな制度を却下していく話しになってしまった。)
皆が「国家の借金を増やすな!」と言っている。だったら、社会政治の介入する範囲を狭めることには同意できるハズだ。

学校など、給食その他・・ 運営していくための費用は昔に比べて下がっている。購入する物品類も、ヘタしたら下がっている。なのに・・ 授業料は上がっていないか?!話しおかしくないか?!
今どき、年収350万以下は教育分野においては国家の保護の対象になる。実はその時点で国家の保護圏は拡大している。
運営コストは下がり、新設設備の集中もない現在... それでも学校に行く費用の負担は増えている。それに対して国民の所得に国家の負担が増えている。

私たちは、庁舎の建て替えや学校の存続のためにも負担を増やしている。そして、高齢化して退職者のいない人件費の負担もしているんだ。それをありがたいことに、国家のお金で援助してくれるという...。
これはパロディではないのか?

そういうところから考えて行かなきゃならない。


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サービスの質 

今日の昼は、ある外食チェーン店に行ったんだが...
日頃から私はチェーン店のサービスに疑問を感じることがよくある。

ウェイトレスのおばちゃんにメインとサラダを注文し、鞄から雑誌を取りだして読もうとしたら「お待たせしました~!!○○サラダで御座いますぅー」と、元気いっぱいに速攻で来た。今私が注文したおばちゃんが持ってきた。
心の中で「いや、待ってないけど...」と思いつつ別にどうでもいいことなんで、まあ普通に食べ、そしてしばらくしてメインの料理も来て美味しく頂いた。
んで、今度は会計の時。
おつりもらって「ごちそうさま~」って帰ろうとしたら、その反応がない。
いや、それで振り向いて扉の前にきたら「ありがとう御座いました~!!」と元気な声で背中にあいさつをもらった。
さすがにこれは納得いかない...。
人が「ごちそうさま」っつってるのにそこに何の反応もないんだ。それでむしろ店員に向かって言ってるかのような大きな「ありがとう御座いました」だ。


これは方法論の話し。
一律のサービスを提供することで皆にもれなく心地よい(と思い込んでいる)サービスを提供し、一定水準を保つこのような手法は、確かに程度にばらつきがあるパートのおばちゃんやバイトのにいちゃんでも実現が可能だし、トラブルやミスを防ぐ段取りも含まれているに違いない。
そして全国チェーンだと、恐らくたった一か所での何かしらのミスが全国に影響してしまう。んだから一定水準の維持こそがリスクマネジメント的観点から見ても望ましいんだろう... しかし、ところが、それではサービスとは言えない。サービスとしてはむしろ失格だ。

しかし、不思議なのは店員だ。
サラダを持ってきたおばちゃんは、当人が注文取ったんだから私が全然待ってないことぐらい分かるだろう。そしてレジの社員さんみたいな男の人も、サービス業の人間がお客さんの「ごちそうさま~」を無視していいのか?(この“一拍の間”は無視に値する。)


制度の導入や、一律の作戦、上層部による決定というのは、このようにスタートラインでしかない。
△△が問題だから、こんな制度にしましょう。
その制度が今いち効果が出ていないからこんな制度を取り入れてみましょう。
・・・このような手法は、確かに皆がそれを忠実に守ってこそデータがとれるものだし、つまり評価が可能になるものだ。しかし、忠実に守らせることに無理がある制度の場合、守らせると現場がオカシなことになるし、だからといって守らせなければその制度の本当の効果は測れない。

この話しは、今どきの一見合理的な発想によくみられる現象を表している。
一律ルールというのは基本的に“妥協案”だと感じるわけだ。
つまり強制されない制度(つまり秩序や道徳、慣習)の中にあって、各現場の個人も意義を感じられる(本質的である)状況であることを目指していく方法のほうが、基本的には発展型であると主張したいわけだ。

これは難しいだろうか...
長い歴史の中で、社会秩序は明らかに進化してきていると言っていい。
私たち個々は、どの時代にあっても常に1回きりの人生でしかないにも拘らず。(まあ、寿命は延びて行ってるけど。)

法遵守、マニフェスト選挙、リスクマネジメントなど... これらの手法と、それと対になる世論や社会セクションという構造は、決して望ましいカタチとは言えない。


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